「日清食品ホールディングス株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『安藤百福』/沿革・歴史など~

「日清食品ホールディングス株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『安藤百福』/沿革・歴史など~

 

「日清食品ホールディングス株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

 

「日清食品ホールディングス株式会社」の企業理念

 

 

 

 

食足世平「食が足りてこそ世の中が平和になる」

 

食は人間の命を支える一番大切なものです。

文化も芸術も思想も、すべては食が足りてこそ語れるものです。

食のあり様が乱れると、必ず国は衰退し、争いが起こります。

食が足りて初めて世の中が平和になるのです。

日清食品の事業は、人間の根源から出発しています。

 

 

 

 

食創為世「世の中のために食を創造する」

 

企業にとって最も大切なものは、創造的精神です。

創造とは、新しい発想と技術によって革新的な製品を生み出す力です。

食を創り、世の為につくす。

日清食品は、世の中に新しい食の文化を創造し、 人々に幸せと感動を提供します。

 

 

 

 

美健賢食「美しく健康な身体は賢い食生活から」

 

空腹を満たし、味覚を満足させたいと思うことは、人間共通の欲求です。

しかし、食に求められるのはそれだけではありません。

美しい体をつくり、健康を維持することが、 食品のもつ大切な機能なのです。

美しく健康な体は賢い食生活から作られます。

日清食品は、食の機能性を追求し、世の中に「賢食」を提唱します。

 

 

 

 

食為聖職「食の仕事は聖職である」

 

食は人々の生命の根源を支える仕事です。

食の仕事に携わる者は、社会に奉仕するという清らかな心を持って、 人々の健康と世界の平和に貢献していかなければなりません。

食の仕事は聖職なのです。

安全で美味しくて体にいい食品を世の中に提供していくことが、 日清食品の使命です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日清食品ホールディングス株式会社」の創業者・創立者『安藤百福』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

安藤百福(日清食品創業者)

 

1910年(明治43年)生まれ。

1910年、日本統治時代の台湾・台南県東石郡樸仔脚(現・嘉義県朴子市)に生まれる。

 

父は資産家だったが、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父呉武のもと、台南市で育った。

幼い頃から数字に異常なほど強い興味を持ち、足し算・引き算・掛け算を習得したという。

 

14歳で高等小学校を卒業。

学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿し通学した。

 

義務教育修了後、祖父呉武の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館の司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小」を設立して日本内地から製品を仕入れて台湾で販売した。

 

当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた。

1933年には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立。

 

メリヤスを扱った他、近江絹糸紡績の夏川嘉久次と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた。

この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年3月に修了した。

 

太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした。

1946年冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。

 

戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した。

自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ。

 

1948年、「中交総社」(後の日清食品)を設立。

専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された。

 

また、1947年に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めた。

1948年12月、GHQに脱税の嫌疑をかけられた。

 

安藤は前述の事業において地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給していたが、奨学金は所得であり源泉徴収して納税すべきであるのにそれを行わなかったというのが理由であった。

 

判決は4年間の重労働の刑で、巣鴨拘置所に収監された。

さらに安藤が個人名義で所有していた不動産は全て没収された。

 

収監中に営んでいた事業を整理していたため、事業家としての人生は振り出しに戻ってしまった。

無一文になる。

 

大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン(即席めん)作りに取り組んだ。

早朝から深夜まで小屋に籠り、インスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けた。

 

インスタントラーメンの開発は1958年の春にはほぼ完了した。

貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた。

 

同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。

三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。

 

安藤はチキンラーメンがヒットした要因を3つ挙げている。

第1はチキンラーメン発売と同じ時期にスーパーマーケットが加工食品を大量販売する流通システムを確立しはじめたこと、第2はテレビコマーシャルが効果を上げたこと、第3は日本の消費者が食事に簡便性を求めるようになっていたことである。

 

1963年10月、安藤が経営する日清食品は東京証券取引所、および大阪証券取引所の第二部に上場した。

日清食品など56社が1964年に社団法人日本ラーメン工業協会(現在の一般社団法人日本即席食品工業協会)を設立、安藤は同協会の理事長に就任した。

 

類似品を含めインスタントラーメンの生産が盛んになるにつれ、麺を質の悪い油で揚げるなど品質に問題のある商品が市場に出回るようになった。

 

安藤は法律によって義務付けられる前に自社製品のすべてに製造年月日の表示を行い、日本ラーメン工業協会においても成分表示や製造基準に関する検討を行い、インスタントラーメンに関する日本農林規格を制定するよう農林省に要請を行うなど、インスタントラーメンの安全、信頼の確保のための仕組み作りに取り組んだ。

 

1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得。

1966年、視察のために訪れたアメリカ合衆国で新商品開発のヒントを掴んだ。

 

あるスーパーマーケットへチキンラーメンを持ちこんだところ、麺を入れるどんぶりがなく、相手は紙コップの中にチキンラーメンを割ったものを入れ、湯をかけてフォークで食べた。

それを見て欧米人には箸とどんぶりでインスタントラーメンを食べる習慣がないことを改めて認識し、カップに入れてフォークで食べられるインスタントラーメン、カップヌードルの開発に着手した。

 

安藤は容器が包装材料、調理器具、食器の3役をこなす画期的な商品が完成したのではないかという感触を得たが、マスコミや問屋からの評判は冴えず、スーパーマーケットなど正規のルートで販売することができなかった。

そこで給湯設備付きの自動販売機を設置したところ、売れ行きがよく、徐々に取り扱う問屋が現れるようになった。

 

カップヌードルの需要が爆発的に高まるきっかけとなったのは、1972年に起こったあさま山荘事件であった。

この事件の際、山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたことにより大きな話題を集め、生産が追いつかなくなるほどの売れ行きを見せるようになった。

 

カップヌードルは日清食品にとってチキンラーメン以来のヒット商品となり、1972年に同社は東京証券取引所、大阪証券取引所、および名古屋証券取引所の第一部に上場した。

1981年(昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の1983年(昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した。

 

1985年(昭和60年)6月に次男の宏基が社長に就任し、再び会長専任となった。

1996年、食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。

 

1999年、安藤がチキンラーメンを開発した大阪府池田市にインスタントラーメン発明記念館が建設された。

2002年頃から宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。

 

同じく2002年、「自らが元気なうちに経営を引き継がせたい」という理由から6月29日で代表取締役会長を退任し、「創業者会長」に就任した。

安藤スポーツ・食文化振興財団は1983年、当時社会問題となっていた少年の非行問題への対策として子供の心を健全に育てるためのスポーツ振興を目的に安藤が創設した「日清スポーツ振興財団」を前身としている。

 

2006年、タイム誌アジア版11月13日号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、アジアの英雄の一人に選ばれた。

2007年(平成19年)1月5日の早朝に38℃の高熱を出し、同日の夕方に急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去。享年97(満96歳没)。

 

 

 

 

 

 

 

 

安藤百福(日清食品創業者)の名言・考え方

 

 

 

発明はひらめきから。ひらめきは執念から。執念なきものに発明はない。ひとつこころみては捨てていく。考えて、考えて、考え抜け。私が考え抜いた時には血尿が出る。私は眠るときもメモと鉛筆を枕元に用意する。あなたも四六時中考える習慣をつけなさい。

 

 

 

 

 

五〇歳でも六〇歳でも新しい出発はある。

 

 

 

 

 

私は事業に失敗して財産を失い、48歳から再出発した。60歳、70歳からでも新たな挑戦はある。人生に遅すぎるということはない。私の人生は波乱の連続だった。成功の喜びに浸る間もなく、何度も失意の底に突き落とされた。しかし、苦しい時の経験がいざというときに常識を超える力を発揮させてくれた。

 

 

 

 

 

 

青春を楽しむのもいいけど、学ぶときは学び、働くときは働くべきです。

 

 

 

 

 

 

事業のヒントは周りを見回せば、どこにでも転がっている。事業化できないアイデアは単なる思いつきにすぎない。本当のアイデアとは実用化されて、成功を保証するものである。どんなに優れた思いつきでも、時代が求めていなければ人の役に立つことはできない。

 

 

 

 

 

 

時は命なり。時計の針は時間を刻んでいるのではない。自分の命を刻んでいるのだ。神はすべての人に1日24時間を与えられた。時間だけは金持ちにも貧乏人にも平等であるが、取り返しがつかない。最大のコストは時間である。24時間働くことは、24時間会社にいることではない。

 

 

 

 

 

 

 

発明や発見には立派な設備や資金はいらない。新しいものを創造する力がなければ企業は存続できません。自分の周囲にいつも好奇の目を向けろ。消費者のニーズや時代を読むヒントは日常生活のいたるところに転がっている。明日になれば今日の非常識は常識になっている。子供のようにいつも「なぜ?」と疑問を発しなさい。

 

 

 

 

 

 

 

私は医者や弁護士であっても、専門家の言うことを鵜呑みにはしない。ときには素人の発想が正しいこともある。素人だからこそ常識を超えた発想ができる。人間はなまじ知識があるから本質がわからなくなる。知識よりも知恵を出せ。机の上でいくら思案しても優れた発想は生まれてこない。

 

 

 

 

 

 

経営者は一度借り入れの味を覚えると抜け出せなくなる。経営に緊張感がなくなり、そのツケは必ず自分に戻ってくる。企業にとって借金は麻薬のようなものである。一度その味を覚えたら抜け出せなくなる。高い山の後ろには、必ず深い谷が待ち受けている。順調な時ほど危機が訪れる。問題ないと考えること自体が問題である。

 

 

 

 

 

 

 

事業を始めるときは成功を語るな。失敗から考えろ。大きな目標があれば、戦略はおのずと生じてくる。細心大胆であれ。いつも心の窓を開けておけ。するとほかの人には見えないものまで見えてくる。開発リーダーに必要なのは安易に妥協しない頑固さである。

 

 

 

 

 

 

 

米国をセールスで回っていたとき、ロサンゼルスのスーパーのバイヤーがチキンラーメンを紙コップに割り入れてスープのように食べていたんです。ああ、こんな食べ方もあるんだと感じたのが、カップヌードル誕生のヒントになったんです。

 

 

 

 

 

 

ラーメンを売るな。食文化を売れ。インスタントとは即時・即刻・瞬間という意味である。してみるとインスタント食品とは時間を大切にする食品ということになる。もし私が体に悪いものを売っていたのなら、土下座をしてすぐに会社をたたみます。

 

 

 

 

 

 

 

良い商品と売れる商品は違う。衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ。独創性のない商品は競争に巻き込まれ、労多くして益は少ない。その商品には消費者が支払った対価以上の価値があるか。売れるかどうかはそこで決まる。大衆の声こそ神の声である。

 

 

 

 

 

 

 

事業構造とは一歩ずつ積み重ねた結果である。踏み固めた基礎がないと砂上の楼閣となり、またたく間に瓦解してしまう。中小企業は何から何まで自分で工夫しなければならない。余計な資金がないから一歩ずつ着実に踏みしめる健全性がある。そういう小さな大企業になりたい。

 

 

 

 

 

 

 

いつも心の窓を開いておけ。すると他の人には見えないものまで見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない潜在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

即席めんの発想にたどり着くには、48年間の人生が必要だった。過去の出来事の一つ一つが、現在の仕事に見えない糸で繋がっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

転んでもただでは起きるな。そこらへんの土でもつかんで来い。

 

 

 

 

 

 

創造、開発は企業繁栄の原動力である。新しい物を生み出していく力がなければ、企業の成長は鈍化せざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

未来とシナリオなき事業は、すべて清算しなさい。企業は夢がなくてはならない。夢が現実のものになるとき、飛躍的に成長する。企業という言葉は創造と同義である。新しいものを世の中に提供していく力がなければ企業である必要はない。

 

 

 

 

 

 

人のやっていないことをやると実りが大きい。やれそうもないことを成し遂げるのが仕事というものである。

 

 

 

 

 

 

 

食のあり様が乱れた国は、必ず衰退する。食足世平が私の信念である。

 

 

 

 

 

 

人間にとって一番大切なのは創造力であり、発明・発見こそが歴史を動かす。

 

 

 

 

 

 

 

創造と冒険は同じ精神の所産である。

 

 

 

 

 

 

時代の変化に対応するのではなく変化を創り出せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日清食品ホールディングス株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1948年 9月魚介類の加工および販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版および販売を目的として、株式会社中交総社 (資本金500万円) を設立、本店を泉大津市汐見町に置く

 

1949年 9月サンシー殖産株式会社に商号変更。本店を大阪市北区に移転

 

1958年 8月〈瞬間油熱乾燥法〉の即席袋麺「チキンラーメン」を開発
12月本店を大阪市中央区に移転、日清食品株式会社に商号変更

 

1959年 12月大阪府高槻市に工場完成、同時に本店を移転

 

1963年 10月東京証券取引所および大阪証券取引所市場第二部に株式上場

 

1970年 7月米国カリフォルニア州ガーデナ市にニッシンフーズ (U.S.A.) Co.,Inc.を設立

 

1971年 9月カップ麺「カップヌードル」を発売開始

 

1972年 3月岡山県瀬戸内市に日清エフ・ディ食品株式会社を設立
8月東京、大阪各証券取引所市場第一部に指定

 

1973年 2月滋賀県栗東市に米国ダートインダストリーズ社と合弁で日清ダート株式会社 (現・日清化成株式会社) を設立
6月本店を大阪市北区に移転
9月滋賀県栗東市に総合研究所 (開発研究所) 開設

 

1977年 4月本社ビル完成に伴い本店を現在地の大阪市淀川区に移転

 

1980年 3月年間売上高1,000億円達成

 

1984年 10月香港タイポー地区に日清食品有限公司を設立

 

1988年 3月東京都新宿区に東京本社ビル完成。東京支社を東京本社と改称
10月滋賀県草津市に中央研究所完成

 

1989年 3月ベアトリースフーズCo., (HK) Ltd. (現・永南食品有限公司) に資本参加

 

1990年 7月株式会社ヨーク本社 (現・日清ヨーク株式会社) に資本参加

 

1991年 1月ピギー食品株式会社 (現・日清冷凍食品株式会社) に資本参加
2月シスコ株式会社 (現・日清シスコ株式会社) に資本参加

 

1993年 3月年間売上高2,000億円達成

 

1994年 12月中国内の第1号の生産基地として、珠海市金海岸永南食品有限公司が操業開始

 

1995年 2月陸上競技部創設

 

1999年 11月大阪府池田市に「インスタントラーメン発明記念館」竣工

 

2001年 3月年間連結売上高3,000億円達成
10月中国・上海に日清食品 (中国) 投資会社を設立

 

2002年 6月食品の安全性に関する研究業務や環境対策を行う機能を持つ食品安全研究所 (現・グローバル食品安全研究所) を新設

 

2005年 5月上海市閔行区に日清 (上海) 食品安全研究開発有限公司を設立

 

2006年 12月明星食品株式会社に資本参加

 

2007年 12月持株会社制への移行を取締役会にて決議

 

2008年 2月「出前一丁」発売40周年
6月株式会社ニッキーフーズを完全子会社化
8月「チキンラーメン」発売50周年
10月持株会社制へ移行。日清食品ホールディングスに商号変更。即席麺事業を日清食品株式会社に、チルド食品事業を日清食品チルド株式会社に、冷凍食品事業を日清食品冷凍株式会社に、および総務、経理、給与計算、情報システムなどの事務管理業務を日清食品ビジネスサポート株式会社に、それぞれ新設分割

 

2009年 1月ロシア即席麺メーカーの持株会社アングルサイド Ltd. (現・マルベンフードホールディングス Ltd.) に資本参加

 

2010年 1月陸上競技部がニューイヤー駅伝で初優勝

 

2011年 9月横浜みなとみらいに「カップヌードルミュージアム」 (正式名称:安藤百福発明記念館) 竣工

 

2012年 1月陸上競技部がニューイヤー駅伝で2度目の優勝
8月袋麺「日清ラ王」発売

 

2013年 7月「日清焼そば」発売50周年
8月カップヌードルミュージアム来館者200万人達成

 

2014年 2月ぼんち株式会社に資本参加
3月新研究所「the WAVE」竣工

 

2015年 10月「ブラジル日清」設立

 

2016年 4月Premier Foods plc と Relationship Agreement を締結

 

 

 

 

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