俺は、昨日の俺ならず~坂本龍馬名言集と軌跡~





新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■坂本龍馬名言集

何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。

地球を動かしているのは、思想ではなく経済だ。

奇策とは百に一つも用うべきではない。九十九まで正攻法で押し、あとの一つで奇策を用いれば、みごとに効く。奇策とはそういう種類のものである。

人の世に、道は一つということはない。道は百も千も万もある。

偏見を持つな。相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。

世に生きものというのは、人間も犬も虫もみな同じ衆生で、上下などはない。

慎重もええが、思いきったところがなきゃいかん。慎重は下僚の美徳じゃ。大胆は大将の美徳じゃ。将か士かは人のうまれつきで決まるものだが、お前は大将修行をやれ。

財政の独立なくては、思想の独立もなく、行動の自由もない。

人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものだ。

人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。

相手を説得する場合、激しい言葉をつかってはならぬ。結局は恨まれるだけで物事が成就できない。

そのことは我が胸に成算がある。やろうと思えば、世に出来ぬことはない。

わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。

人間、好きな道によって世界を切り拓いていく。

一つの概念をしゃべるとき、その内容か表現に独創性がなければ男子は沈黙しているべきだ。

男なら、たとえ、溝の中でも前のめりで死ね。

われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。

世の既成概念を破るというのが、真の仕事である。

人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。

人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。

人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。

暗ければ、民はついて来ぬ。

おのおの、その志のままに生きよ。

英雄とは、自分だけの道を歩く奴のことだ。

時勢に応じて自分を変革しろ。

俺は、昨日の俺ならず。

世に生を得るは事を成すにあり。

世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る。

日本を今一度せんたくいたし申候。

(※)名言の中には坂本龍馬の残した実際の書簡にあるものと、司馬遼太郎「竜馬がゆく」などで創作したものも含まれます。

■坂本龍馬とは?

坂本龍馬。

江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。

天保6年11月15日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。

兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。

坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。

土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て、それにちなんで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説がある。

弘化3年(1846年)、10歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された。

気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれているが諸説あり、はっきりした退塾理由はわかっていない。

以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」を得た。

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。

4月ごろに江戸に到着し、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。

道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られていた。

兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した。

自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている。

同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。

象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

在郷中、龍馬は日根野道場の師範代を務めた。

また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。

また、この時期に徳弘孝蔵のもとで砲術とオランダ語を学んでいる。

安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した。

同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。

二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している。

安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。

安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。

同年9月に土佐へ帰国した。

安政7年(1860年)3月桜田門外の変事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。

同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。

文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。

同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。

土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。

これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた。

武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。

しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。

この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。

12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。

12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった。

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。

だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。

いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。

龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。

4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。

翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるためにふたたび藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。

2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。

熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。

5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。

6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている。

8月中旬ごろに龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。

塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。

慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)5月ごろに龍馬らに出資した(「亀山社中」)。

亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。

一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。

ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。

取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。

この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。

これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。

これは同時に薩長和解の最初の契機となった。

また、近藤長次郎の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。

慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。

だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。

龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。

1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示され、桂はこれを了承した。

これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。

龍馬はこの締結の場に列席している。

龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる。

逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる。

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。

明け方2時ごろ、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。

すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。

負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め薩摩藩に救出された。

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる。

西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、お龍を伴い83日間逗留した。

二人は温泉療養のかたわら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡り、この旅は日本最初の新婚旅行とされている。

幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。

「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ。

航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月ごろから溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。

この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。

海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」が発生した。

大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。

龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及、さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。

後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。

一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。

京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。

龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。

それは以下の八項目であった。

天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)

上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)

有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)

外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)

古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)

海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)

御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)

金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)

以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。

長岡謙吉が筆記したこれは、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

船中八策は龍馬によって書かれたとされる原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とする説もある。

ただ新政府綱領八策は自筆本が残っていた。

慶応3年(1867年)10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。

慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。

一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。

翌14日に明治天皇に上奏。

15日に勅許が下された。

この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。

大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。

展望が見えた龍馬は、10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。

龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある。

また、11月上旬には船中八策をもとにしたとされる「新政府綱領八策」を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。

龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。

当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。

午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。

従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。

龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。享年33(満31歳没)。

旧暦だが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。

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