人の心は日々、千変万化する。
だが、喜怒哀楽や物事の大小にとらわれず、現在の自分でできるかできないかで判断する。
そのためには正しい自分を常に知り続けなければならない。
私が座右の銘とする「知己 自分自身を知る」とは、戦争から今日にいたるまでの体験から生まれ出た人生の取り組み方、また、そうありたいと願う私の願望の言葉でもある。
私にとって人生とは、自分自身を知るための日々なのだ。戦場で生き残り、天命によって生かされ、事業という第二の戦場で現在も戦い続けている私とはいったい何者なのか。
自分の内面を見つめて、常に己を知ろうとしている。
己は時には、対面する相手の言葉や表情にも表れる。
自分が行っている仕事に対する周囲の反応から己が出てくる場合もある。
塚本幸一。
塚本幸一は1920(大正9)年9月17日、仙台市生まれ。
塚本家は滋賀県出身の近江商人であり、織物商として仙台に営業の本拠を構えていましたが、幸一も商人を志して、1938(昭和13)年、滋賀県近江八幡市にある八幡商業学校(現在の滋賀県立八幡商業高等学校)に学びます。
ここで商売の基本を学ぶことになる。
京都からは遠いので、信の実家に下宿しながら通うことにした。
後年ひとに出身地を聞かれると“近江八幡”と答えるのを常とした彼の原点がここにあった。
卒業後、京都で父・粂次郎(くめじろう)の商売を手伝います。
必死に頭を下げながら商売の厳しさを体で覚えていった。
学校を出たばかりの19歳そこそこで、彼は嘉納屋商店の即戦力となっていた。
呉服関係の商人として実績を上げ始めた矢先に、戦争によって夢を中断。
宇品港から中国行きの輸送船に乗せられ、上海から南京と長江をさかのぼり、安徽省の蕪湖に上陸。
さらにトロッコのような軽便鉄道に乗って南の郊外にある湾沚鎮(わんしちん)に向かい、ここで予定通り歩兵第60連隊に編入された。
軍隊では毎月小銃の検査がある。
槊杖(さくじょう)と呼ばれる細長い金属棒をつかって銃身内をきれいにし、最後に空撃ちをして完了となる。そうしないと引き金が下りる状態のままになるからだ。
ある時、就寝後、巡回班長が小銃を手に取ると、カチンと音をたてた。空撃ちされていなかったために引き金が落ちたのである。誰も名乗り出る気配がない。
「よし、それなら向かい合って2列に並べ! 対抗ビンタ始め!」塚本たちは向かい合い、お互いの顔を殴りはじめた。
塚本はここで誰かが名乗り出なければ終わらないと思い、自己犠牲の精神で自分だと虚偽の申し出をした。
そのうち本当の犯人が申し出るだろうと思っていたが出てこなかった。それだけではない。後日、彼でないことがわかると、どうして嘘を言ったと怒鳴られ、またビンタが降ってきた。
塚本は変わった。これまでは喧嘩などしたことがなく、いさかいごとが起こりそうだと自分を曲げてでもそれを避けてきた。だがいつまでも弱腰では殴られるだけである。性格も表情も、軍隊生活の中で明らかに変わっていった。
昭和16年(1941年)4月敵基地のある独山(現在の安徽省六安市)を攻略することとなる。
独山の麓まであとわずかというところに難所があった。約300メートル、見渡す限り水田が広がっていて何一つ遮蔽物がない。あぜ道を進むしかないのだが、そこを敵が狙っていることは明らかだ。それでも行かねばならない。念仏を唱えながら全力で走った。
あぜ道を半分ほど走り抜け、なんとか渡り切れそうだと思った瞬間、足先をこん棒で殴られたような衝撃を受けて水田に転がり込んだ。
敵の機関銃の弾が軍靴の先を吹っ飛ばしたのだ。彼が倒れたのは、敵の銃座が待ち構えているのとは反対側の田んぼだった。
九死に一生を得た幸一だったが、しばらくして、左手にはめていた彼女からもらった珊瑚の数珠がなくなっていることに気がついた。
その後、内地に戻る同期の吉村という男にK女の消息を尋ねてほしいと依頼する。
そして1年あまり経って中国に戻ってきた吉村が持ち帰ってきたのは、彼女の死の知らせだった。
驚くなかれ、あの数珠を無くしたその日にこの世を去ったのだという。
京都駅を出る時、“私が生命を賭けてあなたをお守りします”という血判つきの手紙を渡されたが、まさにその言葉通りになったのである。
昭和19年(1944年)3月幸一はインパール作戦に従軍。
圧倒的な弾丸の雨が降り注ぐ中、部隊は無謀な突撃を繰り返す。
しかし戦友には当たる弾が、なぜか幸一には当たらなかった。
南方軍と大本営がインパール作戦の中止と中立国タイへの退却命令を出したのは昭和19年7月10日のことであった。
勝機を逃した日本軍は撤退を始めるが逃げるのも地獄。
餓死や病気などの戦闘以外の原因による死亡のほうが多かった。
幸一の部隊は、55人中3人だけが生き残る壮絶なものであった。
戦場から京都に戻った幸一は、衝撃的な風景を見てしまう。
護国神社の境内で派手な化粧をした日本人女性が駐留軍と戯れていた。
戦死した日本人が祀られている境内で、彼らを殺害した米兵に媚びを売らなければならない。
この衝撃的なものを見た日のうちに幸一はアクセサリーで創業する。
昭和21(1946)年京都で婦人洋装・装身具卸業の和江商事(ワコールの前身)を立ち上げた。
和江とは父粂次郎の雅号である。江州(滋賀県)出身だった粂次郎が、「江州に和す」という思いからつけたもの。
また、戦友たちに仕事を手伝ってもらっていたこともあって、“ともに戦った揚子江の河岸で契りあった和”とも読めた。
昭和21年(1946年)7月、和江商事設立趣意書を作成。
「終戦以来道義地に落ち、人情紙の如く、復員者の益々白眼視されつつある現在、揚子江の滔々として絶ゆる事なく、悠々天地に和す。彼の江畔に契りを結びたる戦友相集り、明朗にして真に明るい日本の再建の一助たらんと、茲に、婦人洋装装身具卸商を設立す。」
模造真珠のネックレスや竹ボタン、竹に刺繍張りのブローチ、金唐草革財布、ハンドバッグ、キセルなどを山と担ぎ、化粧品や装身具の小売店に飛び込んで売り歩いた。
『月刊仕入案内』という、戦前から大阪で発行されている業界誌に広告を出したのだ。
広告を出したのは昭和22年(1947年)2月ごろのことであった。掲載料の2000円は幸一の1ヵ月の生活費に相当する。彼にとっては乾坤一擲の大勝負だった。
1ヵ月ほどしたある日、山梨県の山間の村で水晶加工業を営んでいる依田喜直という人物から手紙が届いた。幸一はその内容に感動し、一面識もない彼に、何とすぐさま手持ちの金すべてを送り、仕入れの代金を前払いした。
数日後、幸一の手元に依田から荷物が届いた。水晶ネックレスだ。開いてみると、注文より600円分多く入っている。3000円分では売るにしても少ないから、製品を少し多く送ってやろうという心遣いであった。
依田の心憎い対応に、幸一のやる気が益々出てきたのは言うまでもない。幸一は届いた商品をなんと3、4時間で売ってしまうと、売上金をすべて依田のもとに郵便局から電信為替で送金した。
儲けを手元に置いておくという発想はない。儲けも次の仕入れに回しながら、ただひたすらに大きくなることだけを考えた。創業当時の出納簿は、ほとんど家計簿を兼ねていたのだ。
数日後、依田のもとからさらに多くの商品が送られてきた。するとまた幸一は、あっと言う間に売ってしまう。1ヵ月の間に何度もそんな取引が繰り返されるうち、それまで月に2、3万円だった売上は一気に10万円にはねあがっていた。
依田製作所との取引は、その後ブラパットという女性の体型を補正する商品を取り扱いはじめるまで約2年半続いた。それまで依田製作所の水晶ネックレスは和江商事の主力商品だった。
婦人用アクセサリーの販売で事業を軌道に乗せると、昭和24(1949)年には京都百貨見本市にブラジャーを出品。
この年、和江商事を資本金100万円の株式会社へ改組し社長に就任する。
昭和25(1950)年からは髙島屋京都店との取引を開始し業容を拡大。
昭和26(1951)年には大阪出張所と縫製工場を開設し、女性用下着の自社製造に着手する。
昭和32(1957)年、商号を現社名のワコールに改称。
下着ファッション化の波に乗り急成長を遂げ、翌年までに国内縫製子会社を7社設立した。
昭和39年(1964)ワコール株式上場。
京都商工会議所会頭や日本商工会議所副会頭など、財界の要職も歴任。
昭和62(1987)年には会長に退き、平成10(1998)年、77歳で死去。
光を忘れた集団は烏合の衆であって、馴れ合い集団となってしまう場合が多い。
普通の働きで、成果だけは立派なものを得ようとしても、そんなものは夢物語である。
格好よく言えば、私は女性を美しくすることに生涯をささげてきた。まことに幸せな人生というべきだ。
子供心に「僕も何か、やったらできるんじゃないか」という気持ちになった。母の私に対する期待は強かった。今にして思えば、これは一種の暗示だったのだろう。
「先ずれば人を制す。」軍隊生活で得た信条だ。まずできるかできないかを素早く見極め、いけると見込んだからにはトコトンやる。
計画づくりは非常に大事なことである。長期計画の達成に向けて、ひたむきな努力を繰り返した結果が儲けとして出る。さらに次に長期計画があれば、そのお金を設備投資と人材投資に向けることができる。儲かったからと浮かれ、浪費することはない。
色々考えているうちに月日が経過し、やっと結論を出して行動しようとした時には、物事は変化し他の人が行動してしまっている。考えてから走るより、走りながら考えよう。
草むらの中に進駐軍の米兵と派手な化粧をした日本女性がいた。一瞬、女性が襲われていると見えたのは錯覚だった。それまで私は日本女性は銃後の花、大和なでしこといった清らかなイメージを抱いてきた。それが、同胞の祀られている境内の一隅で敵兵であった米兵とたわむれている。言いようのないショックに、私は無我夢中で四条辺りまで突っ走った。
世界一の下着メーカーを目指そうと10年一筋の、50年計画を立てた。まず最初の10年で国内市場を育て、次の10年で確固たる地位を築く。70年、80年代は海外に進出。90年代は仕上げともいえる世界制覇である。
どのような危機の時も私はたじろがなかった。むろん解決に自信があったわけではない。どんなときも全身全力でぶつかってきた。私は信じていたのである。あの戦地の地獄の白骨街道を生き延びてきた自分には、52人の戦友の魂がついている。ここで倒れるわけにはいかない。また彼らが助けてくれぬはずがないと。
一刻一秒も止まらず変化し続ける己自身を正しく知れと教わった。
リーダーというものは、下に対して俺を信頼しろというのではなく、まず自らが下を信頼すること。全てはそこから始まります。
来るべき世紀は、文化というものが、大きく評価される時代になると思います。企業評価といのも、数時の羅列だけで評価するのではなく、企業の倫理・文化性を含んだものにすべきでしょう。
創業時には、創業者の性格によって種々なやり方があるようだが、よく代表的に比較されるのは甲州商人と江州商人の特徴である。甲州商人は大きな名刺を作り、いろいろと肩書きをつけて、『ハッタリ商法』をやるが、江州商人は、コツコツと汗と努力で築いていくと言われている。私も江州商人の血を引いているのだが、甲州商人ばりの逆戦法で、スタートを切った。
「相互関係を貫く」人間が人間を使うことは根本的にできない。相互信頼における協力関係があるだけである。
どんな業界にあってもトップ企業は、リーダーとしての責任を負うべきだ。
十年。帰還してから約十年、戦争の悪夢に夜ごとうなされた。どのような悪夢かは、戦争という極限状態を体験した人間でなければ想像がつかないだろう。それほど戦争は私の心に深く刻み込まれている。戦争の悲惨さは思い出したくない。まして他人に話すのも気が進まない。
私の思想の根幹は、人間は生かされているということ。
自分は生きているのではない。天の命によって生かされているのだ。これからの人生は、死んだ52名の戦友に代わって、世の中のために生きていくことだ。生かされている間は、日本の再建復興の一翼を担おう。生き残ったのは、そういう使命を与えられたからだ。その使命感を母体に一生をやり抜こう。
死んだ気になればなんでもできるというが、もともと自分は一度戦地で死んだ体である。
私には誕生日が二回ある。その第一回目は、この世に生を受けた大正九年九月十七日。そして第二回目の誕生日は昭和二十一年六月十五日、二度と京都の土が踏めないだろうと覚悟していたのが、どこで、どう神様がお目こぼし下さったのか、戦地から生還した、その日である。
経営は毎年が創業、いや毎日が創業だ。さらに細分化していえば毎瞬が創業だ。
諦めと我慢の意思決定は、人生を左右する。
失敗をする。しかしそれが、人生の一番のターニングポイントだと思う。
この世に難関などない。難関というのは、あくまでも本人の主観の問題なのである。難関だと思っている自分があるだけ。