森光子の「大切な」言葉たち~森光子の名言・人生・生き方など~

森光子の「大切な」言葉たち

性格は信じられないほど無鉄砲です。昔、自分は死なないんじゃないかと思ったところもある。今は違います、ちゃんと気をつけないと危ないと。

若い人は、若さという素晴しいものをお持ちですから、それを忘れず、自分と向き合って今の時間を精一杯生きてください。そうすれば、きっと輝くことができます。

奪い合うと足りない。だけど、分け合えば余るから、不思議よね。

人の徳というものは、常識のちょっと上にあるのよね。これが分からないから、みんな迷うのよ。

そのときが誠実で一生懸命だったらそれでいい。あしたを生きましょう。

あきらめてはいけない“時”を知る。

人生は精いっぱいがんばって生きるのよ!!人生とはぴんぴん生きてれば、ころりと逝くものよ。だから安心して毎日ガンバルことです。

私もあなたも、今、この瞬間が人生で一番若いのよ。ほら、この若さ、明日はないんだから。

物ごとには、諦めていいときと、まだ諦めてはいけない時がございます。私はどんなに苦しくてもなかなかあきらめない性質でした。もしかしましたら、それがいい結果につながったのでございましょうか。

私がここまでお芝居を続けてこられましたのは、私が物ごとを簡単に諦めなかったからかもしれません。

ふり返ってみれば自分でも驚くような人生で、よくやってこられたものと、ただただ、自分にびっくりしております。それもこれも、人生の途上で出会わせていただいた温かい人々や、私を助け支えてくださった多くの皆様方のおかげだと感謝申し上げております。

不満はね、ストレスの素よ。感謝はエネルギーになるのよね。

小さいうれしいことをふくらませていこう。

人生、あきらめたらそこで終わってしまいます。

ですから、私は大事なときはいつも次の言葉を頭の中から引っ張り出して自問自答いたします。

「もうあきらめてもいいか、まだ投げてはいけないか」と。

若い人は、若さという素晴しいものをお持ちですから、それを忘れず、自分と向き合って今の時間を精一杯生きてください。

そうすれば、きっと輝くことができます。

誰でも、長い積み重ねの中から未来への道が開けてきます。

かんたんにあきらめず、投げず、焦らず、そして人への感謝を忘れなければ、きっとバラ色の未来が開けるはずでございます。

100年後の人たちにこの本を読んでいただくことができて、森光子という、元気でちょっとお転婆な女優がいたことを知っていただけましたら、とてもうれしいことでございます。

皆さん、平和で変わらない温かな世の中をつくっていってください。

信じておりますから、あなたたちを。

素敵なことがたくさん待っていますよ。

森光子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

森光子。

1920年(大正9年)生まれ、京都府京都市出身。

俳優の嵐寛寿郎の従妹。

母・艶は祇園の芸妓。

幼少の頃は歌と踊りが大好きで、7歳の時にはNHKのラジオ番組にも出演している。

母の実家は京都・木屋町二条下ルで商人宿『國の家』を経営、旅館にはしばしば俳優の阪東妻三郎が芸者衆を連れて訪れており、その華やかな様子も少女時代の森に大きな影響を与えた。

しかし『國の家』は後に倒産、両親も森が13歳のときに肺結核で相次いで死去。

森は当初、松竹少女歌劇のスター、水の江瀧子に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも従兄の嵐寛寿郎のプロダクションに所属。

1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューしたが、1937年(昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。

1938年(昭和13年)、日活に移籍する中、森は新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。

多くは「狸物」などの喜劇や二線級の映画であり「溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。

またこの頃、気鋭の映画監督だった森一生にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。

これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、居づらくなったため映画界から一時身を引く。

1939年(昭和14年)10月、映画法が制定。

映画出演が制限され始めたため、1941年(昭和16年)、21歳で歌手を目指して陸軍の満州慰問団に参加した。

戦時中は日本軍慰問団で東海林太郎らの前座歌手としてミスワカナ・玉松一郎らと中国戦線や南方戦線を巡回する。

終戦後は役者活動に留まらず、ジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた。

1947年(昭和22年)、27歳の時、そこで森を見初めた日系アメリカ人2世の米軍属リチャード・ウエムラからプロポーズを受け婚約する。

だが芸能界に未練があった森は決まっていた渡米をキャンセルし、日本に留まった。

ウエムラは結局婚姻関係を結んでから1週間後にハワイに帰り、短い結婚生活は終わった。

その後1949年(昭和24年)の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、京都山科で闘病生活を余儀なくされる。

その後1951年(昭和26年)に大阪へ戻り、仕事復帰の準備を始めるが、森を待っていたのは芸能界の厳しい現実だった。

そんな森に関心を示したのは当時NHK大阪放送局で芸能番組担当プロデューサーを務めていた富久進次郎だった。

富久は1952年(昭和27年)新春から立ち上げる予定だったラジオコメディー番組『エンタツちょびひげ漫遊記』に森の起用を決める。

横山エンタツの相手役として、翌年の続編『エンタツの名探偵』にも出演し、その後は開局間もない民放ラジオ番組にも起用され始める。

1955年(昭和30年)、ラジオ出演に関して朝日放送と専属契約。

ミヤコ蝶々、南都雄二、夢路いとし、喜味こいしらと『漫才学校』にレギュラー出演。

芸達者な実力者を向こうに回し、関西をホームグラウンドにラジオタレントとしての確固たる人気を獲得、『ロート東西お笑い他流試合』での大阪方の司会役などバラエティー番組のみならず、ラジオドラマでも活躍する。

ラジオへの出演と共に黎明期のテレビ在阪局(NHK大阪、大阪テレビ放送)製作のドラマにも出演するようになる。

ABC専属の森は、系列の大阪テレビ放送において1956年(昭和31年)、在阪局制作のコメディー番組としては初の全国ネットとなった中田ダイマル・ラケット主演のコメディ『ダイラケのびっくり捕物帖』で藤田まこと演じる与力・来島仙之助の“めっぽう腕の立つ妹”・妙を演じ、関東にもその顔と名を知られるようになった。

東宝と専属契約を結び上京を決意し、この年の芸術座公演『花のれん』で東京進出を果たし、その後も『がめつい奴』などに出演する。

1959年(昭和34年)、大阪から東京に拠点を移したほぼ同時期、NHK大阪出演時の仕事仲間で、直後にラジオ東京に移籍したプロデューサーで演出家の岡本愛彦と結婚。

1961年(昭和36年)、前年の舞台『がしんたれ』で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け 、菊田はこれを発展させる形で『放浪記』の脚本を執筆。

森は主役の芙美子役に抜擢される。

この年の芸術座10月公演で初演にして8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)を受賞。

以後、生涯通算で2017回を数える森の主演代表作となると共に、それまで脇役だった森が主演女優への階段を上るきっかけとなった。

1963年(昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演を務めあげたことで、森は仕事にのめり込み仕事最優先となる。

森は仕事を選び離婚。

この離婚以後、生涯独身を貫いた。

乳腺腫瘍の摘出手術、1967年(昭和42年)には急性肝炎のため1か月の入院を余儀なくされ、この時期は健康上の不安に見舞われている。

『東芝日曜劇場・天国の父ちゃんこんにちは』『時間ですよ』『土曜グランド劇場・おふくろの味』『銀座わが町』『かくれんぼ』等数多くのテレビドラマにも出演。

山岡久乃、京塚昌子とともに日本を代表する「お母さん女優」としてその人気を不動のものとし、「日本のお母さん」の異名を取っている。

1974年(昭和49年)から1988年(昭和63年)までの14年間にわたり、フジテレビのワイドショー番組『3時のあなた』で月曜日・火曜日のメイン司会を担当し、この間、石原裕次郎の追悼特集や田中角栄との対談などの大役をこなし、女性司会者としての地位も確立。

司会者としての実力は『NHK紅白歌合戦』の紅組司会者としても発揮されており、第13回〈1962年(昭和37年)〉、第29回〈1978年(昭和53年)〉、第35回〈1984年(昭和59年)〉の3回、起用されている。

また『輝く!日本レコード大賞』でも、1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで司会を務めている。

1975年(昭和50年)11月から翌年5月、TBS系で放送された『花吹雪はしご一家』で母子役として共演した西城秀樹からは「東京のお母さん」と呼ばれ公私にわたり親交を深めた。

大阪での喜劇女優としての経験を生かしてザ・ドリフターズとの『ドリフと女優の爆笑劇場』や加藤茶、志村けんとの『加トちゃんケンちゃん光子ちゃん』といったスペシャル枠のコント番組にも長年出演するなど、その芸域の広さと柔軟性も見せている。

ジャニーズ事務所の創立者であるジャニー喜多川との親交は古く、ジャニーズ事務所開設とともに交流を深めることとなった。

大橋巨泉(以下、巨泉と記述)司会の人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』にも、度々ゲスト解答者として出演していた。

1984年(昭和59年)11月、紫綬褒章を授与される。

1992年(平成4年)11月、勲三等瑞宝章を授与される。

1999年(平成11年)、京都市特別観光大使に任命される。

その後2009年(平成21年)に京都市市民栄誉賞を受賞。

2011年(平成23年)からは京都市名誉観光大使を務めた。

2000年(平成12年)、16年間悩み続けた白内障の手術に踏み切り、無事成功。

2005年(平成17年)、芸能生活70周年を迎えたこの年の3月4日 – 27日に行われた芸術座公演『放浪記』は、老朽化のため解体が決まった芸術座での最終公演。

11月、文化勲章を授与される。

2007年(平成19年)10月2日 – 26日、新橋演舞場10月公演『錦秋演舞場祭り 中村勘三郎奮闘』に出演。

2008年(平成20年)、1月、前年11月、芸術座の跡地にオープンした新劇場「シアタークリエ」で初の『放浪記』公演を行う。

2009年(平成21年)1月、初の著書『女優森光子 大正・昭和・平成 -八十八年激動の軌跡-』を出版。

2012年(平成24年)11月10日、肺炎による心不全のため、入院先である文京区本郷の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。満92歳没(享年93)。

12月7日に青山葬儀場で開かれた本葬では、2300人が参列した。

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