津田梅子の「大切な」言葉たち~津田梅子の名言・人生・生き方・性格など~

津田梅子の「大切な」言葉たち

一人一人の人生の航路には独りで立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題があります。

真理は、見ることを拒まなければ、私たちの誰の魂の中にも明りを灯すでしょう。その明りは、私たちの浅薄な才能、卑しい意地悪利己心、虚栄や嫉妬などを照らし出し、他人のなかにある良さを見せてくれます。

男性と協力して対等に力を発揮できる自立した女性の育成。

高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。

何かを始めることは優しいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。

津田梅子とは?(人生・生き方・性格など)

津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) – 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。

日本における女子教育の先駆者と評価される。

梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた。

父・仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。

仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。

明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。

開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。

5人のうち最年少の満6歳であった。

アメリカではジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。

梅子はワシントン郊外のランマン夫妻のもとで現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を直接体験しました。

この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。

明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。

ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。

明治14年(1881年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。

また、幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風習にも不慣れであった。

アメリカで多感な少女時代を送った梅子にとって、帰国後の生活はカルチャーショックの連続でした。

女性の置かれていた状況に驚き、日本女性の地位を高めなければという思いがつのります。

明治16年(1883年)には、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。

このころ父・仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。

明治18年(1885年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。

明治19年(1886年)には職制変更で嘱託となる。

梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。

やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓う。

明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。

父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。

明治22年(1889年)7月に再び渡米。

ブリンマー・カレッジ在学時(1890年(明治23年))

当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジで生物学を専攻する。

3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。

使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行う。

梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしている。

これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。

大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、明治25年(1892年)8月に帰国。

再び華族女学校に勤める。

梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務める。

明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。

同年、アメリカでの万国婦人クラブ連合大会で日本女性の代表として挨拶を行い、ヘレン・ケラーを訪ね、招かれて立ち寄った英国ではナイチンゲールやヨーク大主教とも会見。

多くの刺激を受け、日本の女性のための高等教育に力を尽くす決意を固めます。

成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞する。

父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。

認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。

女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる(ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという)。

独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やマラらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。

明治36年(1903年)には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。

梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。

鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため64歳で死去。

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