オノ・ヨーコの「大切な」言葉たち
偏見なんか無視しちゃって、自分が好きなことをやったほうがいい。
言いたいことを言えなかった、そのたびに私達は死んでゆく。
春が過ぎ、人は自らの純真を心に留める。
夏が過ぎ、人は自らの充実を心に留める。
秋が過ぎ、人は自らの敬愛を心に留める。
冬が過ぎ、人は自らの忍耐を心に留める。
ひとりで見る夢は夢でしかない。誰かと共に見る夢は現実だ。
人の為にしていることが、実はとても自分の為になっているということがあるのよ。
良くも悪くも運命というものは自分がつくるものだと思います。
私はただ私でありたい、と思って暮らしてきただけ。
オノ・ヨーコとは?(人生・生き方・性格・プロフィール・略歴など)
オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 – )は日本・東京出身のアメリカで活動する前衛芸術家、音楽家、平和運動活動家、ウーマン・リブ/フェミニズム運動家。
ビートルズのメンバーであり夫であるジョン・レノンと共に平和活動を行ったことや音楽面でも創作活動を行い共作を行ったことが知られている。
ジョンの暗殺後も自らの音楽作品を発表し続けている。
また著名な前衛芸術家の1人として、多くの前衛作品やパフォーマンスを世に送り出した。
息子にミュージシャンのショーン・レノンがいる。
母方の曾祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎氏。
安田財閥は、みずほフィナンシャル・グループ、損保ジャパン、明治安田生命保険、東京建物などを創業しています。
父親は銀行家の小野英輔氏。
この小野英輔の父、すなわちオノ・ヨーコの父方の祖父は小野英二郎で元日本興行銀行の第四代総裁です。
2歳のときにはサンフランシスコ、小学校の頃には父の仕事の都合でニューヨークに移住していますが、それぞれその後再び日本へ戻っており、その後小学校~大学(20歳まで)までは日本で暮らしています。
1953年、20歳のとき、学習院大学からアメリカのサラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。
サラ・ローレンス大学在学中に作曲家の一柳慧さん(ピアニスト)と出会い、同大学を退学し結婚しています。
1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。
1962年一柳慧さんと分かれ、ジャズミュージシャン・映像作家のアンソニー・コックスさんと結婚。娘のキョーコ・チャン・コックスさんが誕生。
1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。
同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、アンソニー・コックスさんと離婚し、1969年ジョン・レノンと結婚。
1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。
1971年には、フランク・ザッパのコンサートに出演したこともある。
1980年12月ジョン・レノンは4発の銃弾を受け、ルーズヴェルト病院で23時過ぎに40歳という若さで帰らぬ人となってしまいます。
レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なった。
ビルボード・USダンス/クラブ・チャートでは、2003年以降1位に12曲を送り込んだ。
1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。
近年は息子のショーン・レノンとともにプラスティック・オノ・バンドを再結成。
2014年のFUJI ROCKも参加。
音楽活動とともに全世界的に大回顧展が実施され、2015年にはNYのMOMAで大々的に行なわれた。
また日本でも2015年11月から2016年2月まで東京都現代美術館で大回顧展「オノ・ヨーコ|私の窓から」として実施。
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