上原ひろみの「大切な」言葉たち
迷っていたら勝負に勝てない。
緊張するのは、準備が足りないから。
最後まで守りに入らない女でいたい。 昼間は縁側で孫とお茶を飲んで他愛のない会話をしていても、 夜になるとガガガーン!とピアノを弾き出すというのが 私の理想のオバアチャン像。
会話なんですよ、音楽って。
必ず自分の人生がより豊かになって、 いろんな物が学べているという実感がある以上、 苦労なんて苦労ではないし、 喜びだと思っています。
目の前に立ちはだかるトラブルは、 私の栄養でしかない。
上原ひろみとは?(人生・生き方・性格・プロフィール・略歴など)
上原 ひろみ(うえはら ひろみ、Hiromi Uehara、1979年3月26日 – )は、静岡県生まれでアメリカ合衆国在住のジャズピアニスト。
日本国外ではHiromiという名前で通している。
2007年(平成19年)9月1日にデザイナーの三原康裕と結婚した。
1979年、静岡県に生まれる。
1985年、6歳でピアノを始め、ヤマハ音楽教室ではピアノとともに作曲も学ぶ。
1987年、8歳の時、ピアノの教師宅でジャズのレコードを発見、以降ジャズへの傾倒が始まった。その後もジャズ好きの教師たちに恵まれ、周りの影響で小学校時代からすでに、オスカー・ピーターソンやエロル・ガーナーに熱中する時代を送り、当時からインプロヴィゼーションをこなす。
1993年、14歳の時にチェコに行く機会があり、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演する機会を持つ。
1994年、NHK趣味百科『ピアノで名曲を』に生徒として出演。シューマンの「幻想小曲集作品12 (シューマン)」から「飛翔」「なぜに」を演奏した。
1995年、静岡県立浜松北高等学校国際科に入学。在学中は、ロックにものめり込んだ。
同年、上原が16歳の時、上京した折にたまたまヤマハで来日公演のためのリハーサルを行っていたチック・コリアと出会い、上原の卓越したピアノの才能を見抜いたチックは来日公演の最終日に上原をステージに上げ、今度は観客の前で共演を果たす。
1997年 ミシシッピー州知事からの招聘を受けたヤマハが、現地のサリアマラ国際芸術財団とヤマハ・アメリカ共催で開催したチャリティ(インターナショナル)ジュニアオリジナルコンサート(JOC)にアメリカの子ども8名とともに特別ゲストとして参加。
このコンサートは全米三大ネットワークでテレビ放映された。
1999年、20歳のときに長年付き合いのあるヤマハの音楽支援制度で留学奨学支援(奨学金)を得たのを機に、マサチューセッツ州ボストン市にあるバークリー音楽大学への留学を決意する。
20歳で法政大学法学部を中退し渡米。
留学の主要な目的はピアノ修行ではなく、作編曲技術の習得であったので作編曲科に入学した。
2003年、上原はバークリー卒業を目前にしてアメリカのジャズの名門、テラーク・レコードと契約。
デビュー・アルバム”Another Mind”(日本盤『アナザー・マインド』)をリリースし、世界デビュー。
同年、バークリー音楽大学を首席で卒業。
2008年にはチック・コリアとのアルバム『Duet』を発表。
2010年はソロ・ピアノ作品『Place to Be』をリリース(日本国内は2009年発売)し、アメリカのアマゾンのジャズチャートで1位を記録。
2011年には、2作連続参加となったスタンリー・クラークとのプロジェクト作『スタンリー・クラーク・バンド フィーチャリング 上原ひろみ』で第53回グラミー賞「ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム」を受賞。
2012年4月、ニューヨーク国際連合総会会議場で行われたユネスコ主催「第一回インターナショナル・ジャズ・デイ」に唯一の日本人アーティストとして参加。
2013年にはアルバム『MOVE』の全米発売に合わせ、アメリカで最も権威のあるジャズ専門誌「ダウンビート」の表紙にも登場。
2016年4月には上原ひろみザ・トリオ・プロジェクト feat. アンソニー・ジャクソン&サイモン・フィリップス名義での4枚目のアルバム「SPARK」が、アメリカのビルボード・ジャズ総合チャートで初登場1位を獲得。
2017年には「BBC Proms」への出演、9月にはコロンビア出身のハープ奏者エドマール・カスタネーダとのデュオ・アルバム「ライヴ・イン・モントリオール」をリリースした。
日本国内でも2007年の平成18年度(第57回)芸術選奨文部科学大臣新人賞大衆芸能部門を、2008年と2017年には「日本レコード大賞優秀アルバム賞」を受賞。
2015年には「フジロックフェスティバル」の最大級のグリーンステージに登場しオーディエンスを熱狂させ、2016年にも「サマーソニック」、「SWEET LOVE SHOWER」、「東京JAZZ」出演。
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