「東宝株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「東宝株式会社」の東宝グループの経営理念
当社グループは、「健全な娯楽を広く大衆に提供すること」を使命として小林一三により設立されて以来、映画・演劇を中心に、幅広い層のお客様に夢や感動、喜びをもたらす数多くのエンタテインメント作品をお届けしてまいりました。
また、創業者の言葉である「吾々の享くる幸福はお客様の賜ものなり」を大切な価値観とし、「朗らかに、清く正しく美しく」をモットーに置き、事業の三本柱である「映画・演劇・不動産」のすべての事業において、公明正大な事業活動に取り組むと共に、常にお客様の目線に立ち、時代に即した新鮮な企画を提案し、世の中に最高のエンタテインメントを提供し続ける企業集団でありたいと考えております。
上記の経営理念に基づき、今後ともグループ全体で企業価値の向上に努めてまいります。
「東宝株式会社」の創業者・創立者『小林一三』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
小林一三(東宝創業者)
小林一三。
1873年(明治6年)生まれ。
山梨県巨摩郡河原部村(北巨摩郡韮崎町を経て、現在の韮崎市)の商家に生まれた。
生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られた。
高等小学校から東八代郡南八代村(笛吹市八代町南)の加賀美平八郎が経営する私塾・成器舎を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月に福澤諭吉が塾長の慶應義塾に入る。
その日から塾の構内にある、塾監・益田英次の家に寄宿。
在学中には山梨日日新聞において小説「練絲痕(れんしこん)」を連載している。
そして、明治25年(1892年)慶應義塾正科(現在の慶應義塾大学)卒業後の1892年(明治25年)には三井銀行(三井住友銀行の前身)に勤務。
34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。
日露戦争終結後、三井物産の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行(三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任。
しかし、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。
その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。
1907年(明治40年)6月に「箕面有馬電気軌道」と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった。
しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。
そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の宝塚本線・箕面線に相当する区間にとどまっている。
これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。
小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い成功を収めた。
同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」、そして1914年(大正3年)4月には、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていく。
沿線開発は、そのまま乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改め、神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。
これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなった。
1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した。
また1920年(大正9年)には、日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめる。
路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。
次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。
さらに、客のことを考えた事業姿勢があったといわれ、阪急百貨店における「ソーライス」の逸話などが、現在にも伝わっている。
なお、阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える「阪急」のイメージを確立し続けている。
この百貨店事業の成功は、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となった)といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の第一ホテル(東京・新橋)の開設とさらなる弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。
小林は1936年(昭和11年)に「大阪阪急野球協会」を設立、阪急職業野球団、のちの阪急ブレーブスである。
1934年(昭和9年)阪急社長を辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年辞任)、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任。
電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、財団法人東電電気実験所(現在の公益法人東電記念財団、東電記念科学技術研究所)、昭和肥料(現在の昭和電工)の設立にも関わった。
また一時期、大谷竹次郎が東宝の社外取締役になったのと引き替えに松竹の社外取締役に就任していた。
小林は近衛文麿に接近し、1940年(昭和15年)7月22日に第2次近衛内閣で商工大臣となった。
終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことで公職追放となった。
追放解除は、1950年(昭和25年)10月に行われた第一次解除では申請が認められず、1951年(昭和26年)にずれ込んだ。
その後は東宝の社長になるが、1957年(昭和32年)1月25日、大阪府池田市の自邸にて急性心臓性喘息で死去した。84歳没。
小林一三(東宝創業者)の名言・考え方
自分の持つ長所を確信することである。確固たる思想を飽くまでも維持することである。訓練式タイプ型のみに憧れず、何人も持つ自分自身の長所を顧みて、それに磨きをかける人の多からんことを切に希望する。
百歩先の見えるものは、狂人あつかいにされる。五十歩先の見えるものは、多くは犠牲者となる。十歩先の見えるものが、成功者である。現在が見えぬのは、落伍者である。
はじめて会社に勤めると、誰しもいちばん最初に交際するのは感じのよい人です。しかし、私はこれには反対で、まず感じの悪い人に勇敢にぶつかっていくことです。こういう人は打ち解けると、感じのいい人よりむしろ親切で、本当の味方になってくれるものです。
事業成功の神髄は、と問われたならば、何事も軽率に着手しないことと答えます。着手するまでに十分考え、いわゆるバカの念押しをやってみることが大切です。そのかわり着手したら猛然として進むことは当然です。
収支の裏づけがない仕事は絶対に着手しない。仕事を始める時に細密な予算を立てる。その予算の数字にどこまで責任が持てるか、予算が実行可能かどうかを徹底的に確かめる。
事業は無理してはいけない。病人に無理が禁物なように、事業も無理をしたら必ず失敗する。事業経営にあたってまずなすべきことは、大方針を立てること、計算の基礎を確立すること。
「努力の店に不景気なし」ということは不景気の今日たくさん証明されている。不景気であるが故に一層「独創と努力」を必要とする。
働けばよい、それから先は運命だ。先づ朗かに清く正しく働くことが我が一党のモットーだ。サァついて来い。意気地ない若いヤツよ。
百里先の見える人は、世の中から気狂い扱いされる。現状に止まるものは、落伍者となる。十里先を見て事を行うのが世の成功者である。
人物養成について最も気をつけなければならぬのは、欠点を探さず、長所を見ることである。欠点は誰にでもあるのであるから、それをあまりやかましく言わず、その人の長所と美点を認めてやらぬといかんと思うのである。
しくじっても咎めない。しくじった人にもどしどし仕事をさせる。しくじったからといって、その人に仕事をやらせないのは、そのしくじっただけの経験を捨てることで損な話である。
50銭均一にしたのは、大衆によき映画をよき席で安く提供せんがためである。均一料金だから入場券売場も一ヶ所ですむし、案内係も少人数ですむ。また場内も等級による客の区別や整理をしなくてすむから人手が従来の映画館の半分ですむ。人件費が少なくてすむので、それだけ安い入場料でもソロバンは合っていく。
素人だからこそ、玄人にはわからない商機がわかる。
世の中は変わる。非常な勢いで変わってゆくのであるから、どう変わるかを早く見通して、それに適応して行った人間が勝ちである。
世間では僕の事業が片っ端から当たるのを見て、何か特別の事業哲学でもあるかのように言われる。だが、僕の事業は突如として現われたものではない。みんな十数年も研究している。僕の事業は十数年もの基礎工事があって、初めて生まれてくるのだ。
「議論は手段であって目的でない、目的は実行にある」のであるから、自分の説を実行させればよいので、自説を発表する必要はない。むしろ自説を発表せずして、実際に行わせるのがよい。
必ず偉くなる秘訣は「縁の下の力持ち」をするに限る。それは己を捨てて人のためにはかることだ。
新事業の準備が充分にととのったら即突進すべし。一、二、三ではいけない。二は迷いである、自信のなさである。
われわれの社会生活といふものは、自分さへ儲かれば他はどうなってもよいといふものではない。自由競争を基礎とする営利主義経済の組織に於ては、個別的利害の対立は止むを得ないにしても他を冒さずに自分の立つ道があればそれに越したことはなからう。5銭のキャラメルを4銭5厘で売る。それが百貨店である場合には、たとへキャラメルで損をしても、他の商品で儲けることが出来るから埋合せもつくが、それではキャラメル専門の小売店が助からない。・・・斯ういふ事は心ある百貨店の為すべき途でない。百貨店が価格の点で競争する場合はよろしく自分の手で、自分の工夫で、自分の設備で製造した商品に限らるべきである。
誰にも夢がある。それはたとえ小さくともその夢がふくらみ花を咲かせ、立派に実るのを見るのは楽しい。
下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。
金がないから何もできないという人間は、金があってもなにも出来ない人間である。
青年よ、独立せよ。大会社にあこがれるな。商売はいくらでもある。仕事はどこにでもある。
「東宝株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1932
08(株)東京宝塚劇場設立(取締役社長 小林一三)
1934
01旧・東京宝塚劇場開場
02旧・日比谷映画劇場開場
1935
06有楽座(2代目)開場
1936
01日本映画劇場(株)(旧・日本劇場を所有)を吸収合併
06東宝映画配給(株)を設立
1937
03(株)東横映画劇場を合併
08東宝映画(株)を設立
11東宝映画(株)が、(株)写真化学研究所、(株)P・C・L製作所、(株)j・Oスタヂオ、東宝映画配給(株)の4社を吸収合併
1938
03帝国劇場(株)(旧・東京會館を所有)を合併
1943
12東宝映画(株)を合併し、映画の製作、配給、興行および演劇興行の総合的一貫経営を行うこととなり、社名を東宝(株)に改称
1945
03(株)梅田映画劇場および(株)南街映画劇場を合併
1947
03(株)東京會館を分離独立
1949
05東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
1950
07(株)帝国劇場を設立
1952
03日劇ミュージックホール開場
1953
12南街会館完成
1954
04「七人の侍」公開
11「ゴジラ」公開(「ゴジラ」シリーズ第1作)
1955
07東京宝塚劇場4階にスカラ座開場
07(株)帝国劇場を合併
1956
01「へそくり社長」公開(「社長」シリーズ第1作)
03「宮本武蔵」米アカデミー賞名誉賞(現・外国語映画賞)受賞
1957
04旧・東宝本社ビル完成
04芸術座開場
1958
02日本劇場で第1回「ウェスタン・カーニバル」開幕
07「駅前旅館」公開(「駅前」シリーズ第1作)
09「無法松の一生」ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞
1961
07「大学の若大将」公開(「若大将シリーズ」第1作)
10「放浪記」初演(芸術座)
10東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所、各市場第1部に指定
1962
07「ニッポン無責任時代」公開(「東宝クレージー映画」シリーズ第1作)
1963
09「マイ・フェア・レディ」初演(東京宝塚劇場)
1965
03「東京オリンピック」公開
10新・帝国劇場の建設にあたり、(株)帝国劇場を設立(1976年7月、東宝不動産(株)に合併)。
10TV「青春とはなんだ」(NTV系列)放送開始
1966
01「細雪」初演(芸術座)
09新・帝国劇場開場
1967
09「屋根の上のヴァイオリン弾き」初演(帝国劇場)
1969
04「ラ・マンチャの男」初演(帝国劇場)
10新宿東宝会館竣工
1972
07TV「太陽にほえろ!」(NTV系列)放送開始
1973
03米トニー賞国際特別賞受賞(東宝の演劇活動に対して)
12「日本沈没」公開
1974
10TV「傷だらけの天使」(NTV系列)放送開始
1980
10ナビオ阪急(現・HEPナビオ)竣工
03「ドラえもん のび太の恐竜」公開(「ドラえもん」シリーズ第1作)
05「影武者」カンヌ国際映画祭パルムドール受賞
1981
02日本劇場閉館(日劇ミュージックホールは東京宝塚劇場5階へ移動)
1983
02TV「積木くずし」(TBS系列)放送開始
1984
01第1回東宝シンデレラ誕生(沢口靖子)
03日劇ミュージックホール閉館
10旧・日本劇場跡地に有楽町センタービル(有楽町マリオン)竣工
11有楽座(2代目)閉館
1987
06「レ・ミゼラブル」日本初演
10旧・日比谷映画劇場、有楽座(2代目)跡地に東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)竣工
1991
07渋東シネタワー竣工
1992
05「ミス・サイゴン」初演(帝国劇場:1年半のロングラン)
1993
07「クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王」公開(「クレヨンしんちゃん」シリーズ第1作)
1997
04「名探偵コナン 時計じかけの摩天楼」公開(「名探偵コナン」シリーズ第1作)
07「もののけ姫」公開(配給収入新記録【113億円】)
1998
01旧・東京宝塚劇場、旧・スカラ座閉館
05米トライスター版「GODZILLA」全米で公開
07「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」公開(ポケモンシリーズ第1作)
2000
06東宝版「エリザベート」初演(帝国劇場)
11「MILLENNIUM SHOCK」上演(帝国劇場)
12旧・東京宝塚劇場跡地に東京宝塚ビル竣工
2001
07「千と千尋の神隠し」公開(興行収入新記録【308億円】)
2002
02「千と千尋の神隠し」ベルリン国際映画祭金熊賞受賞
2003
02東宝スタジオ、改造計画開始
03「千と千尋の神隠し」米アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞
04ヴァージン・シネマズ・ジャパン(株)を買収し、TOHOシネマズ(株)に社名変更
07「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」公開(実写作品興行収入新記録【173億円】
2004
02南街会館閉館
05「世界の中心で、愛をさけぶ」公開(自社製作作品興行収入新記録【85億円】)
12札幌東宝ビル(札幌シャンテ)竣工
2005
03旧東宝本社ビル建て替えにより芸術座閉館
04東宝本社を東宝日比谷ビルに移転
2006
09旧南街会館跡地に東宝南街ビル竣工
10映画興行部門を会社分割し、TOHOシネマズ(株)に承継
2007
10旧東宝本社ビル跡地に東宝シアタークリエビル竣工
11シアタークリエ 開場
2008
03TOHOシネマズ(株)が興行会社4社(東宝東日本興行(株)、中部東宝(株)、東宝関西興行(株)、九州東宝(株))を吸収合併
09(株)コマ・スタジアムを連結子会社化
12年間興行収入記録更新【739億円】
2009
08札幌公楽興業(株)および新天地(株)を吸収合併
2010
09東宝スタジオ改造計画完了
12年間興行収入記録更新【748億円】
2011
02国際放映(株)を完全子会社化
2013
06東宝不動産(株)を完全子会社化
10東宝東和(株)を完全子会社化
12「永遠の0」公開(自社製作作品興行収入新記録更新【86億円】)
2014
03(株)コマ・スタジアムを吸収合併
05米レジェンダリー版「GODZILLA」全米公開
08三和興行(株)を吸収合併
2015
03新宿東宝ビル竣工
11札幌東宝公楽ビル竣工
2016
07「シン・ゴジラ」公開
08「君の名は。」公開(自社製作作品興行収入新記録更新【250.9億円】)*2017年12月現在
12年間興行収入記録更新【854億円】(現 歴代1位)
2017
03東宝不動産株式会社を合併
2018
02日劇(TOHOシネマズ日劇)閉館
03合歓の広場、「日比谷ゴジラスクエア」にリニューアル
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