「トヨタ自動車株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『豊田佐吉』/沿革・歴史など~

「トヨタ自動車株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『豊田佐吉』/沿革・歴史など~

「トヨタ自動車株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

トヨタ自動車株式会社の企業理念

 

「人・社会・地球環境との調和を図り、モノづくりを通して持続可能な社会の実現を目指します。」

 

 

 

 

トヨタ自動車株式会社の基本理念

 

1.内外の法およびその精神を遵守し、オープンでフェアな企業活動を通じて、国際社会から信頼される企業市民をめざす
2.各国、各地域の文化・慣習を尊重し、地域に根ざした企業活動を通じて、経済・社会の発展に貢献する
3.クリーンで安全な商品の提供を使命とし、あらゆる企業活動を通じて、住みよい地球と豊かな社会づくりに取り組む
4.様々な分野での最先端技術の研究と開発に努め、世界中のお客様のご要望にお応えする魅力あふれる商品・サービスを提供する
5.労使相互信頼・責任を基本に、個人の創造力とチームワークの強みを最大限に高める企業風土をつくる
6.グローバルで革新的な経営により、社会との調和ある成長をめざす
7.開かれた取引関係を基本に、互いに研究と創造に努め、長期安定的な成長と共存共栄を実現する

<1992年1月制定、1997年4月改正>

 

 

 

トヨタ グローバルビジョン

 

「笑顔のために期待を超えて」

人々を安全・安心に運び、心までも動かす。
そして、世界中の生活を、社会を、豊かにしていく。
それが、未来のモビリティ社会をリードする、私たちの想いです。
一人ひとりが高い品質を造りこむこと。
常に時代の一歩先のイノベーションを追い求めること。
地球環境に寄り添う意識を持ち続けること。
その先に、期待を常に超え、お客様そして地域の笑顔と幸せに
つながるトヨタがあると信じています。
「今よりもっとよい方法がある」その改善の精神とともに、
トヨタを支えてくださる皆様の声に真摯に耳を傾け、
常に自らを改革しながら、高い目標を実現していきます。

 

 

 

 

「トヨタ自動車株式会社」の創業者・創立者『豊田佐吉』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

豊田佐吉(トヨタ自動車創業者)

 

豊田佐吉。

1867年(慶応3年)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)に父伊吉、母ゑい(えい)の長男として生まれた。

 

父伊吉は、農業の傍ら、生活のために大工として働き、腕のいい職人として信頼を集めていた。

佐吉は小学校を卒業するころから、父の大工仕事を手伝うようになった。

 

佐吉が生まれ育った時代は幕末から明治初期の動乱期。

村全体が困窮を極めていた。

 

1885年(明治18年)、18歳になった佐吉は、国が新しい法律を発布したことを知る。それが『専売特許条例』だった。「これだっ!」その内容を聞いた瞬間、佐吉は自分がやるべきこと、進むべき道をついに見つけた。これを契機に、自らの知恵により新しいものを創造する発明に一生を捧げようと決意した。

 

あるとき、村の農家で使われている手機(てばた)に興味を持った。「能率の悪い手機を改良することができれば、きっと人々の役に立てる」。そう考えた佐吉は、大工の仕事もそこそこに納屋にこもった。

1890年(明治23年)秋、佐吉の最初の発明となる「豊田(とよだ)式木製人力織機」を完成。

 

翌1891年(明治24年)には、はじめての特許も取得した。佐吉は24歳になっていた。

佐吉が特許を得た「豊田式木製人力織機」は、これまで両手で織っていたものを片手で織れるように改良したもので、織りムラがなく品質は向上し、能率も4~5割向上した。

 

1892年(明治25年)、佐吉は、自ら発明した豊田式木製人力織機数台の小さな織布工場を現在の東京都台東区千束に開業した。

発明のための資金を確保するため、1894年(明治27年)、佐吉は、紡いだ糸を織機のたて糸用に効率的に巻きかえる、画期的な豊田式糸繰返(とよだいとくりかえし)機を完成した。

 

その後、糸繰返機の製造・販売のために、名古屋に、豊田代理店伊藤商店(豊田商店、後の豊田商会)を設立した。

糸繰返機の販売が軌道に乗る中で、動力織機の発明に一心不乱に取り組み、佐吉は、1896年(明治29年)、日本で最初の動力織機である木鉄混製の豊田(とよだ)式汽力織機(豊田式木鉄混製動力織機)を完成する。

 

開口、杼入(ひい)れ、筬打(おさう)ちを人力から動力に替え、よこ糸が切れたら杼が止まり自動で停止する装置や、布の巻き取り装置などを備え、安価な上に、生産性や品質も大幅に向上した。
佐吉は、織機の動力源として蒸気機関だけでなく、石油発動機も用いた。

 

佐吉のこの動力織機に注目した三井物産合名会社(現、三井物産株式会社 以下「三井物産)は、織機製作会社の設立を提案してきた。1899年(明治32年)、合名会社井桁商会が設立され、佐吉は技師長として動力織機の製作を指導するとともに、発明に専念することになった。

 

1903年(明治36年)、機械を止めずによこ糸を自動的に補充する最初の自働杼換(ひがえ)装置を発明し、それを装備した世界初の無停止杼換式自動織機(豊田式鉄製自動織機(T式))を製作した。

1905年(明治38年)、たて糸の送り出し装置を備えた、木鉄混製の堅牢な豊田式三十八年式織機を、1906年(明治39年)、三十八年式を改良し、能率と織物品質を高めた豊田式三十九年式織機を発明した。

 

また、1906年(明治39年)、佐吉は自動織機とともに、究極の目標と定めていた動力を空費しない理想的な円運動を用いた環状織機を発明する。

それまで織機とは平面運動でありよこ糸の往復運動で布を織るものと考えられていた。

 

それを、杼の動きを回転運動に変え、よこ糸の挿入も打ち込みも静かに間断なく行うといういまだかつてない発明だった。

1907年(明治40年)、三井物産の勧めにより、東京・大阪・名古屋の有力財界人が資金提供し、豊田商会の工場と従業員を受け継ぐ豊田式織機株式会社(現、豊和工業株式会社)が設立された。

 

佐吉は、常務取締役技師長に就任し、発明・研究を続けた。

1911年(明治44年)、現在の名古屋市西区則武新町(現在のトヨタ産業技術記念館の地)に、自動織機の発明完成の足場を築くために、独立自営の豊田自動織布工場を設立した。

 

1918年(大正7年)、豊田自動紡織工場を改組し、近親者やごく親しい人びとからの出資による豊田紡織株式会社を設立した。

1918年(大正7年)、佐吉は単身中国大陸に渡り、上海を中心に紡績業を詳細に調査、翌1919年(大正8年)、半ば永住の覚悟で、佐吉は、再び上海に渡った。

 

1年かけて工場用地を手に入れ、1920年(大正9年)、建坪約1万坪の大紡織工場が完成した。

1923年(大正12年)、現在の刈谷市に豊田紡織刈谷試験工場を新設した。そこで、営業的試験が何度も重ねられ、1924年(大正13年)、無停止杼換式豊田自動織機(G型)が完成した。

 

G型自動織機は、高速運転中にスピードを落とすことなく杼を交換してよこ糸を自動的に補給する自働杼換装置をはじめ、杼換誘導、よこ糸切断自働停止、たて糸切断自働停止のほか、各種の自働化、保護、安全および衛生などの機構、装置が装着され、生産性や織物品質で世界一の性能を発揮した。

 

自動織機が完成した後、1926年(大正15年)11月、名古屋市の豊田紡織事務所にて、株式会社豊田自動織機製作所(現、株式会社豊田自動織機)が設立された。

1929年(昭和4年)、同社に「日本・中国・米国を除く国々でG 型自動織機を製作・販売する権利を与える」という契約を締結した。日本人の発明が世界に認められ、外国企業から特許権譲渡を求められたことは、日本の技術史上、特筆される快挙だった。

 

1930年(昭和5年)10月、豊田佐吉氏逝去。

 

 

豊田佐吉「社是」

一、上下一致至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし

一、研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし

一、華美を戒め質実剛健たるべし

一、温情友愛の精神を発揮し家庭的美風を作興すべし

一、神仏を尊崇し報恩感謝の生活を為すべし

 

 

 

 

豊田佐吉の名言・考え方

 

 

男は、四の五のいらぬことを考える必要はない。志を立てた以上、迷わず一本の太い仕事をすればよい。

 

 

人間のやったことは、人間がまだやれることの100分の1にすぎない。

 

 

発明発見とか創意工夫の世界は、あくまでも広大無辺で、今まで人間の踏み込んだ地域は九牛の一毛(多くの牛の中の1本の毛)にも達していない。その大きな未開の秘庫は「早く扉を開けてくれ」と、中からいつもわれわれに呼びかけている。しかもその扉を開く鍵は、いつも、どこにも、誰の足下にも転がっておるのである。

 

 

仕事は人がさがしてくれるものではなく、自分で身付けるべきものだ。職は人が作ってくれるものではなく、自分自身でこしらえるべきものだ。それがその人にとっての、本当の仕事となり、職業となる。とにかくその心掛けさえあれば、仕事とか職業とかは無限にあるといっていい。

 

世の中の多くの人の為に、またお国の為にと言う考えで一生懸命に働いてゆけば、食う物も着る物も自然とついて来る。

 

 

障子を空けてみろ、世界は広いぞ。

 

 

いくら儲けたいの、いくら儲けねばならんのと、そんな横着な考えでは人間生きてゆけるものではない。

 

わしは他人よりよけいに創造的知能に恵まれているわけではない。すべて努力の結晶だ。世間は、その努力を買ってくれないで「天才だ」と言って 片付けてしまう。私には遺憾千万。

 

 

金は借りやすいところから借りてはいかん。慎重な貸し手は相手の人格を見て、仕事の内容を検討する。そんな人は、こちらが悪くなるとさらに金をつぎ込んでくれる。その反対に、安易に金を貸してくれる人は、こっちが一番金が欲しいときに返済を迫ってくる。

 

その大きな未開の宝庫は、早く扉を開けてくれと中から叩いて呼びかけている。

 

これはみな外国品ばかりではないか。こんなことで日本の将来をどうする。今に私は立派な国産品をつくって、きっと外国品を追っ払って見せる。

 

 

石田、君は商人だぞ。商人なら金を儲けてくれ。儲けたら俺たちに回してくれ。そうしてこそ、はじめて研究ができるんだ。だいたい、世間の奴は研究家の実情を知らんな。

 

一日働かざれば、一日食わず。

 

わしの今日あるのは、天の心というものだ。それなら、こちらも社会へ奉仕せにゃいかん道理だ。「誠実」というその字を見ろ。言うことを成せという言葉なんだよ。

 

百の苦難を耐え忍び、千の訓練で鍛えれば、目標を達成することができる。

 

 

 

 

 

豊田喜一郎(トヨタ自動車創業者)

 

豊田喜一郎。

豊田佐吉と佐原たみの長男として生まれる。

 

当時夫婦は東京浅草(千束村)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。

 

3歳で父・佐吉の住む愛知県名古屋市(現・同市東区)に転居し、東区武平町や西区島崎町、栄生町の工場内に住む。

のち名古屋市白壁町の家に住む。

 

高岳尋常小学校、現・名古屋市立東桜小学校、愛知県師範学校附属小学校(現愛知教育大学附属名古屋小学校)、旧制明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、第二高等学校(現東北大学)甲組工科を経て、1920年東京帝国大学工学部機械工学科卒業。

 

卒業後、父・佐吉の意向で、経営者になるため9月から東京帝国大学法学部で1921年3月まで学んだ。

その後地元の名古屋に戻った喜一郎は、豊田紡織に入社。

 

1921年7月から1922年2月まで豊田利三郎夫妻とともにサンフランシスコ、ロンドン、オールダムなどを視察しマルセイユから上海経由で帰国した。

父には発明より経営に重点を置くように指示されていたが、碧海郡刈谷町に試験工場を作り、自動織機の開発を開始。

 

1926年に豊田自動織機製作所を設立し、常務取締役に就任。

1933年9月1日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設。

 

喜一郎は、佐吉から「わしは織機をつくってお国に尽くした。お前は自動車をやれ」といわれていた。

一府県一社のディーラー網の整備も整え、工場を新設、それに伴い従業員数は急速に増加。500人前後だったその数は、1936年には3500人を超す人数に膨れあがっていた。

 

1936年に自動車製造事業法の許可会社に指定されたことから、これが1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立。

1938年、工場のために田畑を移すのを避けたいという思いから、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の荒地だった58万坪の土地を取得し、自動車工場を建設した。

 

終戦後は食料確保のため庭でドジョウの養殖や、ウズラの飼育を行った。

GHQ(連合国総指令部)は、陸海軍の解体、軍需産業の生産停止を指令した。

 

一方で、一定の範囲内で民需転換が許可されることになり、自動車については復興用としてトラックの製造が許可された。

トヨタは12月に民需転換を許可されたものの、財閥解体令による制限会社への指定や、賠償問題で経営は揺さぶられた。

 

喜一郎は、乗用車の生産がいつになったら許可されるかわからないこの時期に、小型車の開発を指示していた。

技術顧問の隈部一雄は「今のうちに思い切った研究を行い、技術を蓄積して後日の発展を期そう」と語り、調理器具や農耕用エンジンなどを設計していた技術者たちは、同年11月には、再び自動車の研究開発を始めた。

 

全社をあげての努力が実り、1946年1月にSA型小型乗用車の試作車が完成、つづいて1947年3月にはBM型トラックの生産を開始。

そして、ついにGHQから排気量1500CC以下の乗用車年間300 台の製造許可が日本に与えられるとともに、トヨタによる大型乗用車50台の製造が許可された。

 

その後順調に経営を拡大したが、1949年のドッジ・ラインの影響で不況に陥った中、トヨタ自動車の債務も増大し、早期優遇退職を行う経営側と全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会の対立が激化。

労組問題の責任をとるため、1950年6月に社長を退任。

 

東京に研究所を設立し、エンジンの研究などを行った。

1952年死去。

 

2001年に創設された、日本自動車殿堂の殿堂者に選出され、2018年には、アメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした。

 

 

豊田喜一郎の名言・考え方

 

 

私は之を「過不足なき様」換言すれば所定の製産に対して余分の労力と時間の過剰を出さない様にする事を第一に考えて居ります。無駄と過剰のない事。部分品が移動し循環してゆくに就いて『待たせたり』しない事。「ジャスト、インタイム」に各部分品が整えられる事が大切だと思います。これが能率向上の第一義と思います。

 

 

発明は知識そのものよりも、それをいかに自分のものにしているかにかかわる。学校を出ない人が往々にして相当な発明をするのはそれ故である。これを世の人のために活用し得るまでには、いろいろな研究と大きな努力がいる。その努力の中に発明が生まれてくるものだと私は思っている。発明は努力の賜である。

 

 

我々日本人の誰かが自動車工業を確立しなければ、日本のあらゆる民族産業が育ちません。それは別にトヨタでなくともいい。けれども現状のままでは、カナダがフォードのノックダウン生産に占領されて自動車工業など芽もないように….日本も同じ道をたどります。引いては日本の工業が全部アメリカの隷属下に入り、日本は永久にアメリカの経済的植民地になってしまいます。

 

 

勿論、人のやったものをそのまま輸入する必要もありますが、何と云っても、苦心してそこまでもって行った者には尚それをよりよく進歩させる力があります。人のものをそのまま受け継いだものには、楽をしてそれだけの知識を得ただけに、さらに進んで進歩させる力や迫力には欠けるものであります。日本の真の工業の独立をはからんとすれば、この迫力を養わなければなりません。

 

 

同じ物を千個作ると、たいがいの職工は手が慣れて間違いのない物を作るようになります。最初の数百個の中には良い物もできますが、手が定まるまではこれを捨てるくらいの覚悟は必要であります。

 

エンジニアは一日にして出来るものではない。有無無象が集まって出来るものではない。数百人のエンジニアを保護し、生活の安定と研究の自由を与えることが必要であって、その経費も決して高いものではないと思う。

 

 

一旦トヨタから出した車は、何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります。

 

当然儲かる事業を当然な方法でやってゆくよりも、だれも余りやらない、またやり難い事業をものにしてみる所に人生の面白みがあるもので、できなくて倒れたら、自分の力が足りないのだ。

 

現場で考え、研究せよ。

 

 

汽車に乗るのに一分のことで乗り遅れたというが、一分どころか一秒だって遅れたら汽車には乗れない。かといって、駅に行くのが早すぎれば、汽車が来るまでぼんやりと待っていなければならず、時間の無駄である。つまり、私のいう「ジャスト・イン・タイム」とは、間に合うというだけの意味ではない。余分なものを間に合わせても仕方がないんだ。

 

必要な時に、必要なモノを、必要なだけ。

 

 

困難だからやるのだ。誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ。そんな俺は阿呆かも知れないが、その阿呆がいなければ、世の中には新しいものは生まれないのだ。そこに人生の面白みがあり、また俺の人生の生き甲斐が、そこにあるのだ。

 

 

フォードがどんな方式を取っておろうと、トヨタはトヨタでやります。フォードよりすぐれた方式を打ち立てねば、フォードに勝てません。

 

 

作ってやる、売ってやるではいけない。買ってもらう、作らしてもらっている、という気持ちでなくてはいけない。

 

 

今日の失敗は、工夫を続けてさえいれば、必ず明日の成功に結びつく。

 

 

一本のピンもその働きは国家に繋がる。

 

 

 

 

「トヨタ自動車株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1897年、豊田佐吉氏が木製動力織機を発明し、1918年豊田紡織株式会社を設立。

1926年、豊田佐吉、喜一郎らが無停止杼換式自動織機を発明し、1926年、豊田自動織機製作所を設立。

 

1933年、豊田自動織機製作所に自動車部が発足。

織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年11月にG1型トラックを発表。

 

翌1936年9月に、同社初の量産乗用車であるAA型乗用車と、同時にG1型の改良型であるGA型トラックを発表した。

これまで豊田自動織機製作所の自動車部として刈谷市で開発・製造されていたが、1937年8月28日に独立した新会社が広大な敷地のある愛知県挙母市(現豊田市)に設立され、本社と工場が設置された。

 

創立記念日は本社工場が竣工された11月3日としている。

1936年9月25日に「トヨタ(TOYOTA)」の使用が開始され、翌年の自動車部門独立時も「トヨタ自動車工業株式会社」が社名に採用された。

 

日中戦争および太平洋戦争中は主に帝国陸軍向けのトラックと、少数のAA型乗用車、派生型のAB型(ABR型)・AC型などを生産し、陸軍の要請で川崎重工業との合弁で後にアイシン精機となる東海航空工業を設立したり、トヨタも航空機部門を作って航空機用エンジンを製造した。

 

大戦末期の1945年8月14日にアメリカ軍の爆撃で挙母工場の約4分の1が破壊された。

1950年にドッジ・ラインに伴うデフレと戦前の好調を支えた割賦販売方式の影響を受けてトヨタは経営危機に陥った。

 

豊田喜一郎社長は辞任に追い込まれたが、直後に朝鮮戦争が勃発して軍用トラック特需があり倒産を回避、同時に技術者の中村健也の監督のもと、国産自家用車の開発を開始した。

この経営危機時、都銀・地銀含めトヨタと取引のあった銀行24行による協調融資団が結成される中、帝国銀行、東海銀行を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)が設立された。

 

このとき融資に協力した帝国銀行と東海銀行が主力銀行となるが、融資条件に合理化も含まれており、トヨタは初のリストラを断行している。

貸付金を回収した大阪銀行は、後継の住友銀行がさくら銀行と合併するまで50年のあいだ口座開設や取引はされなかった。

 

千代田銀行は取引解消に至らずも再建策に消極的であったことから、後継の三菱銀行は住友銀行ほどではないが、海外の資金調達や決済など一部に限られて東京銀行と合併するまで45年のあいだ全面的な口座開設や取引はされなかった。

喜一郎の後を継いだ石田退三社長の時代にクラウン(1955年)、コロナ(1957年)、ダイナ(1959年)、パブリカ(1961年)などロングセラーカーを開発し、販売網の整備を推し進めた。

 

1956年クラウンがロンドン-東京間を走破、国産自動車メーカー各社の自信となった。

のちの中川不器男社長時代にスポーツ800(1965年)、カローラ(1966年)、ハイエース、2000GT(1967年)などを発売。

 

特にカローラの躍進により、トヨタは国内シェアトップを不動のものとした。

このころから北米、タイ、ブラジルなどにも進出し、カローラが発売後10年の1974年に車名別世界販売台数1位になって、トヨタの急速な世界展開をリードした。

 

豊田英二社長の時代にセンチュリー(1967年)、スプリンター、マークII(1968年)、カリーナ、セリカ、ライトエース(1970年)、スターレット(1973年)、タウンエース(1976年)、ターセル、コルサ(1978年)、カムリ(1980年)、ソアラ(1981年)などを発売し、公害問題や排ガス規制などに対処した。1980年にビスタ店を設立し、トヨタ店、トヨペット店、カローラ店、オート店(1998年に「(旧)ネッツ店」に改称)とともに「販売5チャネル体制」を確立した。

 

1982年にトヨタ自工とトヨタ自販が合併し、現在のトヨタ自動車株式会社となった。

新会社の社長に喜一郎の長男・豊田章一郞が就任し、佐吉の甥である英二は会長に退いた。

 

国内市場で1982年のビスタ、マスターエース、1984年のハイラックスサーフ、MR2、1985年のカリーナED、1986年のスープラ、1989年のセルシオ、1991年のウィンダムなど次世代のトヨタを担う車種を発売し、国内販売高トップの座を強固にした。

1989年にアメリカを主要マーケットとしたトヨタの上級ブランド「レクサス」を立ち上げた。

 

レクサス・LS (日本名、セルシオ) の成功は、日本車が高級乗用車としても通用することを証明した。

1992年に章一郞は社長を退き弟の豊田達郎が社長に就いた。

 

バブル経済の崩壊は自動車業界を直撃してトヨタも影響を受けた。

時代はトヨタの得意とするセダン・クーペなどの高級感・格好良さより、SUVやミニバンなどの実用性を重視する分野へと移り変わって行き、シェアは一時40%を切った。

 

トヨタはセダンに力を入れる一方、ミニバンのエスティマ(1990年)や、クロスオーバーSUV(CUV)の先駆けとなるRAV4(1994年)を投入して状況に対応した。

不況の続く中、1995年に達郎は高血圧で倒れ、副社長の奥田碩が社長職を継いだ。

 

奥田は創業家出身の会長の章一郞を後ろ盾に、業績が下降していたトヨタを再生させ、積極的な海外販路拡大路線を開始した。

1997年に高級SUVの先駆けとなるハリアーと、世界初の量産ハイブリッドカープリウスの販売を開始し、1999年のヴィッツ発売を機に張富士夫に社長の座を譲った。

 

張は奥田の海外販路拡大路線を推進し、2002年 頃以降は年間50万台ものペースで海外販売台数が急拡大し始めた。

2003年 に2代目プリウスの販売を開始したが、この成功は「ハイブリッドカーを擁する環境先進企業・トヨタ」のイメージを確立させる事に成功した。

 

2000年から部品の設計開発段階からの原価低減を目指したCCC21活動を開始し、ピーク時の2003年に3,000億円の原価低減を達成した。

2003年3月末集計における従業員数は65,551人、トヨタグループの連結子会社の合計は264,096人で日本最大、世界で第三位の企業規模となった。

 

2004年に旧ネッツ店とビスタ店を統合して新生・ネッツ店として再出発した。

傘下企業の関係強化も進み、1998年にダイハツ工業、2001年に日野自動車の株式の過半数を取得した。

 

2005年に張の後任として渡辺捷昭が社長に就任した。

渡辺も、奥田社長時代以降続いている拡大路線を継続しつつ、CCC21活動を発展させてシステム単位で原価低減を目指すVI活動を開始した。

 

同年、トヨタ町の本社新本館が完成し地上14階、地下2階の一面ガラス張りの現代的な建物が完成。

8月にレクサス店を日本へ導入した。

 

10月にゼネラルモーターズが保有する富士重工業の約20%の株式のうち8.7%を取得し筆頭株主になった上で、提携を結ぶことを発表した。

2007年に世界販売台数が過去最多の936万6,418台を記録し (世界2位、生産台数は世界1位)、2008年3月期の連結営業利益も過去最高となる2兆2703億円を記録した。

 

2007年に、名古屋駅前にある豊田ビル・毎日ビルの建替えによる再開発で建設されるミッドランドスクエア内に新しい名古屋オフィスが完成し、元名古屋ビル、JRセントラルタワーズオフィス、本社機能の一部と名古屋市内と東京本社からそれぞれ日本国内・日本国外の営業部門が移転した。

 

2008年のリーマン・ショックで世界の自動車販売台数は急減し、トヨタも2009年3月期の連結営業利益が4,610億円で58年ぶりに赤字に転落した。

2008年の年間世界販売台数はGMの販売台数が落ち込みが激しかったため、897万2,000台の販売台数を記録したトヨタグループが初めて販売台数世界一となった。

 

この自動車市場の冷え込みに加えて、2009年 から2010年 にかけて大規模リコールが発生したため、トヨタの経営は一転して危機的状況に陥った。

2011年に東日本大震災、タイ大洪水が発生し、2010年から続く記録的な円高もあって、トヨタグループの世界販売台数はGMとフォルクスワーゲングループに抜かれて世界3位に後退した。

 

2012年に過去最多となる世界販売台数974万7,762台を達成し、2年ぶりに世界販売台数1位を奪還した。

2012年末からのアベノミクスの金融緩和による円安で、2013年3月期はリーマン・ショック後初で5年ぶりとなる営業利益1兆円越えを達成する。

 

2013年4月にレクサス・インターナショナル、第1トヨタ、第2トヨタ、ユニットセンターの4つのビジネスユニットを新設し、意思決定を迅速化した。

これは1982年の工販合併後の最大の組織改編であった。

 

同年のグループ年間生産台数は1011万7274台を記録し、世界の自動車メーカーの中で初めての年間生産台数1000万台超えを達成し、翌2014年は、年間販売台数でも初の1000万台超えを達成した。

2015年3月期は日本企業で初の純利益2兆円越えを達成。

 

2015年に新しい設計開発思想「TNGA(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャ)」の導入を開始し、さらなる原価逓減と「もっといいクルマづくり」の姿勢を鮮明に打ち出した。

一般投資家向けに中長期保有を前提とした元本保証の種類株式『AA型種類株式』の発行を発表。

 

即座に業績へ反映されない研究開発に投資するのが目的とされる。

株式名はトヨタ初の量産乗用車AA型にちなんで命名された。

 

同年2月、トヨタは燃料電池車の特許5700件を無料開放。社会全体での水素技術の普及を図った。

2016年トヨタはCASEやMaaSに対する施策を矢継ぎ早に打ち出していく。同年11月1日、「コネクティッド戦略」を発表。

 

2018年1月、トヨタは 2018 International CES においてモビリティサービス(MaaS)専用次世代電気自動車(EV)”e-Palette Concept”を発表。

トヨタは「自動車をつくる会社」から「モビリティカンパニー」にモデルチェンジする意向を示し、新たな展開を進めている。

 

 

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