ピーター(池畑慎之介)の「大切な」言葉たち~ピーター(池畑慎之介)の名言・人生・生き方など~

ピーター(池畑慎之介)の「大切な」言葉たち

15歳で芸能界にスカウトされ、デヴィッド・ボウイなどユニセックスが注目された時代に、大人が可愛がってくれる少年(ピーターパン)というコンセプトでデビューしました。でも蓋ふたを開けたら10代の女の子たちから「キャーキャー」言われて(笑)。デビューからの約7年間は、記憶にないほど忙しかった。

私がデビューしたころとは時代が違うんですよね。私なんて、化粧してるってだけで出られなかったから(笑)もう、いまの感覚の人がディレクターやプロデューサーを務めてるんでしょ。だから、そんなこと、別に新しいとも思ってない。これが当たり前と、番組の作り手はもちろん、見る人だって思ってる。

私は地唄舞の芸能一家に生まれ、父は家元でした。親族にサラリーマンは一人もいない、結局は血なんだと思います。自分は舞台に立ち、お客さまの拍手によって充実感をいただいている、心機一転、芸能界に復帰しました。これからは自身が望む仕事をやっていこうと決意し、31歳の時には黒澤明監督の『乱』に出演させていただきました。『乱』は化粧をせずに素顔で勝負できることを証明した大切な作品です。それからは、役者として演じる時は池畑慎之介、タレントで活動する時はピーターとして、2つの名前を使い分けるようになりました。おかげで、頑かたくなに守ってきた少年のイメージ「パンタロンスタイルのピーターパン」という制限が消え、演技もタレント活動もやりやすくなりましたね。だからこそピーターの時はドレスを着て、派手にキレイに、自由に何でもできるんです。

私は吉村流四世家元、人間国宝の吉村雄輝の長男として生まれました。女舞としてお化粧をして初舞台を踏んだのは3歳でした。15歳でメイクをしてデビューしたとき、自分の顔を映画で観て、「お化粧をするとこういう顔になるんだ」と思ったり…。男女の区別なく〝美〟は身近にあった気がします。とはいえ50年前なので、男の人がお化粧をすることに抵抗を持たれる時代ではありましたよね。美輪明宏さんが丸山明宏さんだった頃ですから(笑)。

両親が離婚をしたため、8歳のときに母方の故郷である鹿児島へ。そこで初めて、土に触れる生活を知ったのです。土の上で遊んだり、転んだりすることは、私にとっては新鮮な体験でした。家の前には海がどこまでも広がり、遠方には桜島が望める。まるで絵葉書のような美しい景色を見ながら育ちました。鹿児島で過ごしたのは中学3年生の後半まで。進学に重点を置く学校に息苦しさを感じ、家出をして東京へ。その後大阪の父のもとで生活をすることになりました。半年ほど暮らしたものの、今度は父の元から家出。レールを敷かれ、干渉されるのが嫌だった私は、口うるさかった父との生活に耐えられなくなり、単身上京したのです。上京後は、ゴーゴーボーイとしてクラブで働きました。その当時の住居は、クラブのボーイさんのアパート。押入れに布団を敷かせてもらって寝泊りしていましたね。

ピーターはニックネーム、芸名。ピーターにさよならしたつもりでしたが、世界を旅している時、日本人の方にピーター、ピーターと呼ばれて名前の重さ、浸透度を思い知った。

私の中では1に住、2に食、そして3番目が衣。だって人生の3分の1は睡眠に費やすわけだから、90歳まで生きたら30年は寝てるわけでしょ?だからこそ住まいは、ちゃんとしていたいんです。40歳で「海の見える家に住む」と決め、家で心地良く過ごすことにこだわってきたから、仕事が終わればすぐに帰りたくなる。それでも60歳を過ぎ、40代の頃と比べると行動範囲が狭くなったから家の断捨離を決意、葉山以外の自宅を手放しました。女優の高峰秀子さんや沢村貞子さんの本を読み、人は半分以上、不要な物の中で暮らしていると気付いたんです。諸先輩方の「人生をシンプルに捉える生き方」に憧れますね。

この頃、芸能界でも身の周りでも、亡くなった方をお見送りすることが多くなりました。自分の人生を考えると、『次は見送られる番かもしれない』と感じる年になってきたんです。『ああ、楽しかったな』と悔いなき人生の終わり方をしたいと思ったとき、『やりたいことがあるんだったら、いまのうちにやっておきなさい』と言う、もう一人の自分がいました。

自分を大切に生きてください! 「?のために」と犠牲的な考え方をせず、自分が何をしたいか。例えば、料理も誰かのためではなく自分のためにする。「私が食べたいから作ったんだけど、食べる?」というスタンスでいれば、「せっかく作ったのに!」とは思わないはず。結果的に「おいしいね!」となってくるんだから。それから、一人でいることの豊かさを感じることも大切です。オススメは1日2時間ヒミツの時間を作ること。旦那さんやお子さんがいて忙しくても、ショッピングでも読書でもなんでもいいので、家族にも友達にも伝えない自分だけの時間で好きなことをする。ワクワクしてきますよ。

死ぬまでにしたい100のことを書き出す。家を買うなどの大きなことでも、部屋の模様替えをするなど小さなことでもいいので自分の欲求をノートに書いて、それを叶えたら消していくんです。私は30個以上消しました。残りは70個近く。こうしていくと前しか見られなくなります。過去の栄光より、今から未来のことが大事。前向きに生きていくようになります。希望と達成感があれば、内面の美が磨かれ、素敵な笑顔が生まれますよ!

友人といえるのはそんなに多くはないです。知り合いはたくさんいても。自分の時間つくることはとても大事だし、必要なことです。その方が人にも優しくいられると思うし。だから好印象を考えるよりも自分に正直になることを考えてはどうなのでしょう。

心から笑っていないからじゃないのかな?つくり笑顔はいらないよ。

人生は『選択』の連続。自分で選んだことは自己責任です。

そうそう、私ね、孤独死って言葉が大嫌いなんです。その人の人生の、本当のところなんて何もわからないくせに『孤独死でした、寂しい最期でした』って勝手に死に方にまでレッテル貼るなよ、って言いたい。大好きな自宅で1人、倒れて死ぬって、結構幸せな最期と思ってる。何より、煩わしいことが嫌で、孤独を愛したり、孤独を楽しんでる人間だっているんだから。それを勝手に『寂しい』だなんて言ってほしくない!

だから、どんなことがあっても、私は最期、笑って死んでやろうと、そう思ってる。だって、そもそもさ、子や孫に看取られようが、1人で逝こうが、死んだらその瞬間、タンパク質になっちゃうんだから。笑顔のタンパク質で逝こうと、そう決めてるんだよね……

世界一美しいおじいちゃんになりたい。

どっちでもいいじゃない、私は私、ピーター・イズ・ピーター。

ピーター(池畑慎之介)とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

ピーター(池畑慎之介)。

1952年生まれ。

上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として大阪府大阪市中央区宗右衛門町で生まれた。

兄弟は姉一人。

3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。

5歳の時に両親が離婚、好きな方を選べと言われ、父は舞の稽古で鬼のように怖かったので母・池畑清子と暮らすことを選択、小学校2年の時に祖父・祖母のいる鹿児島県鹿児島市に移り、少年時代を過ごした。

母は天文館で「淀川」という料亭を経営していた。

慎之介が父方の橋本姓ではなく母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降。

鹿児島市では清水小学校から進学校の名門、ラ・サール中学校に入学。

しかし寮生活の息苦しさに耐えられずに鹿児島市立城西中学校へ編入、中学3年の秋に家出、大阪を経由して東京へ向かう。

新宿へ行くつもりが原宿へたどり着き、表参道のクラブで募集していたゴーゴーボーイに応募、年齢をごまかして働き始めたが、来客(若柳流関係者)に問われて父が吉村流の家元であることを言ってしまったために在京の吉村流の関係者に発見され、たまたま歌舞伎座に出演していた父に知らされ、慎之介が夜中目覚めたら枕元で父は泣いていた。

すぐに実家に連れ戻され、この事件を機に両親は復縁している。

堺市立浜寺中学校を卒業後、大阪市内の私立高校である桃山学院高等学校に入学。

しかし高校1年の時に再び家出して上京。

この時働いていた六本木のゴーゴークラブで、男の子か女の子か分からない美少年ということから「ピーター・パン」と呼ばれていた。

これが芸名「ピーター」の由来。

グループ・サウンズのオックスのボーカル赤松愛に似ていると言われて、「六本木の赤松愛」と言われた。

六本木のクラブで知り合った作家の水上勉のパーティーに呼ばれ、ATG映画『薔薇の葬列』にかかわっていた舞台美術家の朝倉摂に「主役の美少年にぴったり」とスカウトされた。

1969年、俳優・ピーターが誕生、同年10月には歌手デビューも果たし、当時のキャッチフレーズは「アポロが月から連れてきた少年」と称される。

さらに、自身デビュー曲の『夜と朝のあいだに』では、同年大晦日放映のTBSテレビ『第11回日本レコード大賞』で最優秀新人賞を受賞し、特に女性からの広い支持を受けて一躍アイドルスターとなった。

その後、数々映画に出演する一方で歌手としての活動も続けていったが、1985年黒澤明監督の『乱』で重要な狂言師役に抜擢された頃から役者としての層に厚みが増すようになり、これが今日の「二人の」池畑につながっている。

池畑本人も才能ある舞踊家で、長らく「吉村雄秀(ゆうひで)」の名取でもあり、吉村流の例会にもきちんと出ていた。

父・雄輝は晩年「慎之介をどうかよろしく」と家元継承を匂わせる発言もしていたが、1998年に死去すると池畑は自ら「雄秀」を返上して吉村流とは決別し、家元は実力のある内弟子が継ぐ、という流派の伝統を守らせた。

本人は一から舞踊の勉強をやり直すことを決意したという。

なお父の死を機に、母と再び熱海で同居を始めるも、母は2002年に死去。

2006年からテレビに頻繁に出演するようになり、過去を知らない若者の間にも知名度が浸透した。

特に愛のエプロンでは、男性対決だけではなく女装しても活躍し優勝するほど料理の腕を振るった。

最近では料理番組にも多数出演するようにもなる。

CMやバラエティにも出演し、年齢と性別を超越した活動を行っている。

2008年7月1日付で大手芸能事務所、オスカープロモーションに所属することになり、同年、7月25日から始まった同じ事務所の菊川怜主演のテレビ朝日系連続ドラマ「打撃天使ルリ」に7年振りにドラマに出演した。

しかし個人事務所のマネージャーが覚醒剤取締法違反で逮捕された事を受け(後、不起訴となる)、「オスカーに迷惑をかけた。他の人のイメージまで悪くなる」と自ら責任を取ってマネジメント契約を09年9月5日付で解除した。

東北地方太平洋沖地震をきっかけに、「物を持つことの虚無感というか罪悪感」を感じて断捨離を始めた。

2012年8月以降、芸能プロダクション・A-team所属タレントとなっている。

2013年3月、役者名を「池畑慎之介」に改名。

なお、タレント・シンガーとしての芸名は「ピーター」のままである。

2018年5月、同年いっぱいで「ピーター」の名前を卒業し、本名の「池畑慎之介」で統一することを発表。

2019年からは1〜2年の休養を取り、充電期間とする意向を示した。

2020年4月からは生島企画室へ所属が決まり、1年3ヶ月振りに芸能界へ復帰することになった。

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