大黒摩季の「大切な」言葉たち
北海道は全員みんな親戚だと思ってるんで。
もともと中高生の頃からバンドをやっていて、ライブハウスでライブをしてたんですよ。子どもの頃から音楽をやって、曲を作ってバンドをやって。東京に出てきて、レコード会社の門を叩いて、ビーイングという日本一の制作集団に入った。どこかのオーディションで受かっていきなりデビューとかじゃなく、叩き上げなんです。だから、ビーイングに入ってからは、そりゃいろいろ学びたいから夢中になりましたよ。
ロック歌手も モデルの子も みんな同じ醤油顔。
だってライブが原点だもん。結婚はしたけど、家庭よりステージ上がホームだなって思うし、家庭のほうがアウェイだと思うときがある(笑)。立つだけで身体の血が流れるし、育ってきたのがあそこだから。デビューしてから数年間、それが抜けていただけなんです。だからライブをやるようになったときは「やっと会えたね」って感じでした。
“ありがとう”と“ごめんなさい”は1秒以内に言う。
2回お腹を切っているので、一度は歌えない覚悟をしていました。声量も、ハイピッチの地声も、お腹周りが肝なんです。まさにその部分を切っている。先生たちも腹筋を横に切らずに縦に切るとか、いろいろ考えてくれたんですけれど、それでも手術後の痛みを思うと、「無理だろう」と言われたりもしました。でも、その20cmを上った瞬間に「始まった」と思ったんです。そのあとに、高校生のときからやっていた札幌のベッシーホールという小さいライブハウスで、バンド編成で歌いました。それを経て、みなさんが大好きなノリノリな大黒摩季が『ライジング』に出たんです。
男はミツバチだからおいしいところには行くけど、人食い花みたいな女のところには近づかない。
大黒摩季って、私の「私物」じゃないんですよね。大黒摩季というブランドでありプロジェクトである。たくさんのミュージシャンの才能を拝借して、自分の血肉にして、プロデューサーや周りのスタッフたちが選んでくるものに乗っかる。大黒摩季というブランドをみんなで作っている意識が強くて、私自身もそのキャストの一人なんです。だから「大黒摩季にしてください」って言っているときにいつも思うのは、お客さんが望んでいるものを教えてください、ということ。それは嘘ではなく自分の一部なんです。
鈍いって言われると、プチッとくるんだよね。
私がデビューした頃や休む前までは、音楽業界がバブルで、制作費もあったし、みんなが叶えたい夢に向かって突っ込んでいけた。けれど、今は底がないほど縮まっているから、どこを見ても制作陣が悲壮ですね。「休んでいたあんたになにがわかる」って思われるかもしれないけれど、「そこまで窮屈な選択をしなくていいんじゃないの?」って思うことがたくさんあります。主婦的感覚でいうと、冷蔵庫の中を探して、あるもので料理すればいいじゃん、みたいな。削減したり縮めていくだけじゃなくて、いろんなやり方がある。
泣いて許されるのは25ぐらいまで。
不器用で意地っ張りで、そのくせちっちゃいプライドで意固地。好きな子に「好き」という前に、すごくかわいい子に奪われるとか。ゲリラ戦で最後に失敗するみたいな。踏んだり蹴ったりの人生なんですよ(笑)。それを、「摩季A」が「摩季B」に対して「こう考えればいいんじゃないの?」みたいに自分を俯瞰して。それは、「ダメな私」に対して。そんなことを人に言われると、カチンと来るじゃないですか。だけど、自分から自分に向けたものであればそうはならない。それが私にとって日記や歌詞だったんです。だから女子が「私も」と共感してくれる。「自分のため」だから。女子がお腹にためてるものをワーッと、一緒に吐き出してるだけ。だから、「大黒摩季」なんて全然カリスマじゃなくて、隣のお姉ちゃんとか、妹とか地元にいる人。その程度の存在なんです。
バックコーラスの時代が長かったんですよね。その頃はいい時代でしたよ。バブルが来てるときに東京に来て、そのままバブルが弾けて今になった。だから「いい時代でした」としか言えない。でも、あの頃のバブルは自分たちが作ったものではないんですよね。上の世代が「こんな貧乏は嫌だ」って頑張った結果に、私たちは乗っかって空騒ぎしただけ。自分たちの底力じゃない。だから私は、今の若者にそれをプレゼントしたいという気持ちですね。
きっかけがないと自分では決められない事がある。何かに背中をグッと押されなきゃ勇気も出ない時がある。
女性としては壮絶! 笑っちゃうくらい壮絶でした。「私だけどうしてこんな目にあうんだろう」って思うことばっかりだった。女性は30代から厄年の連続で身体が変わってくるので、歌い手の女の子はみんな苦しんでると思うんです。私もそれを一通り全部苦しんで、七転八倒しながらもなんとかやってきて。と思ったら病気というさらなる試練があって。子宮の全摘出までいきましたからね。でも、今は悪いものがなくなったので逆に楽です。ここから先、生まれて初めてベストコンディションで歌えるというワクワクのほうが大きい。他のアーティストが絶好調で歌っているのを見ると涙が出るくらい悔しかったけれど、そういう自分ともお別れできた。今はとても身軽です。
明るく広く浅く当たり障りは少なく。強いものに厳しく弱いものには優しく。
私は諦めの悪い女なんですよね。なんで諦めないかって言ったら、その先の音が聴きたいから。そうじゃなかったらとっくに諦めたり、いじけたりしてると思います。だから、人にメッセージをできるほど立派な人生を送っていませんけど、幸せな人は幸せだって言ったほうがいい。それに、女性はもっと「女」を生きたほうがいいと思います。私、昔はナチュラルな女になりたくてアレサ・フランクリンの“ナチュラル・ウーマン”ばっかり歌ってたんです。それが、若いときに歌っても全然よくなかったけれど、傷付いたりいろんな思いをして、女力が出たら、急によくなってきた。歌は生き様が表現になるんです。たとえ演じているつもりでも、それが出てくる。だったら、人生を謳歌したほうがいいものができる。
本気の恋は決して楽じゃない。
無理に男っぽくなんかならなくっていいよと思いますね。自分を生きたほうがいい。他人みたいになろうとすればするほど敵が増えて居場所がなくなるけど、自分をブラッシュアップして磨けば、それが唯一のものになる。生徒にもそう言ってるんです。無駄だから、他人と自分を比べるなって。
自分らしさということを信じて生きたいよね。
私、人が劇的に変わる瞬間はふたつしかないと思っていて。ひとつはショック、もうひとつは感動や憧れなんです。私たちの世代は先生にバンバン殴られてましたし、競争してたし、取り残されてました。荒っぽい時代に育ってるから、ショックに強いんです。でも、今の子は競争も少ないし、慣れていないから、いきなりショックを受けると心が死んでしまう。だったら憧れと感動しかない。その力があればショックにも耐えられる。荒療治はダメだってわかったので、じゃあどうすればいいのだろうと思ってたときに、説明するのも面倒臭いからみんなの前で歌ったんです。背中と生き様を全部見せることにした。
たった一度の人生というなら、光輝いてみたいから。
生活の中の時間割なだけ。今日は仕事を選びます、明日は申し訳ないけど早く帰ってデートします、それでなにか? みたいな(笑)。人に言われて選ぶものじゃないでしょ。今は情報が多すぎるけど、人の言うことに惑わされたってしょうがない。要するに勉強よりも体感が先。だから私も最近はラフなんですよ。なんでもいらっしゃい、カモン! って感じです(笑)。
死んでもいいと思えるような何かに向かってツッ走りたい。
自分が歌えなかった6年間、主婦&母の介護の毎日で、自由時間がほとんどなく、半日近く家を空けられない、ましてや泊りで遠征など無理。そんなフラストレーションがたまるばかりの毎日でしたので、まずはファンの皆様のもとへ復帰のご挨拶と歌声を届けに行くべきだと思いました。47都道府県ツアーを持ち出した時は、スタッフから”摩季さん、正気ですか?”と、無謀だと言われましたけど、”規模じゃない、やると言ったらやります!”みたいなわがままを言って(苦笑)。しかも大人のわがままはこれまた用意周到で、”そちらができないなら自分でツアーを組んじゃうも~ん”、みたいなたちの悪い逆切れで、”じゃあやりますかね!”と、半ば強引に押し切ったんです(笑)。
負けないで。自分で決めた人生じゃない。
環境と運命は変えられないから、言葉を作り変えて、屁理屈にも似たポジティブが大黒摩季だと思っているので(笑)。言葉でその気になると今日の目線が変わる。目線が変わると、景色も変わってくるでしょ? 流されてるんじゃなくて、そこに飛び込んで流れてると思えば、「自分の意志」になる。そうすると、憎々しい人も減るじゃないですか? 人のせいにしたり、人を憎むと体に毒がたまりません?
私、しつこいんですよ。だからマネージャも根負けする。47都道府県ライブも「絶対無理」って言われたのに、ほらできている。しかも80本になってるよ(笑)? そうやってうれしいハプニングが起こるほうが、動いてもないのにつまずいて、それをハプニングと呼ぶより、よっぽど気持ちが良いじゃないですか。だからきっと、夢を叶えるためのマテリアルは好奇心と気分。だって、見たいんだもん。触りたいんだもん。行きたいんだもん。作りたいんだもん。どうしても(笑)。
大黒摩季とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
大黒摩季。
1969年(昭和44年)生まれ、北海道札幌市南区出身。
3歳からクラシックピアノを始め、札幌市立石山小学校の頃から作曲をしていた。
幼少の頃はオモチャがピアノだったという。
藤女子高等学校卒業後に上京する。
1989年にビーイング主催のオーディション(第3回BADオーディション)に合格するも、コーラスをするよう言われる。
他にもソニーやビクターのオーディションに合格しており、ソニーからは「すぐにデビューしよう」という話があったが、大黒はビーイングでの下積みの道を選ぶ。
その後、B’z、ZARD、TUBE、T-BOLAN、DEEN、織田哲郎などのビーイング系アーティストのコーラスを担当する。
1990年には安宅美春のギターソロアルバム「孤独のRUNAWAY」にゲストボーカルとして参加し、山下久美子の「WHY?」「LOVE & PEACE」「BIBBIDI, BOBBIDI, BOO」をカバーしている。
1991年1月にSILK(大森絹子)のアルバム収録曲「ジョン・レノンが聴こえる夜」(作詞はみなみなみ)で作曲家デビュー。
TUBEの春畑道哉のソロライブツアーにコーラスとして参加。
またCM NETWORKの一員として「GO!GO!貴花田」という曲を歌っている。
また、同年発売の西城秀樹のシングル「走れ正直者」のカップリング「HIDEKI Greatest Hits Mega-Mix」のコーラスに参加。
1992年、「STOP MOTION」で歌手デビュー、ドラマ主題歌という大型タイアップがつくもセールスはいまいちだった。
2ndシングル「DA・KA・RA」がCMのタイアップがつき問い合わせが相次ぎ結果的にヒットチャートを上昇しミリオンヒットを記録し、第34回日本レコード大賞新人賞受賞。
以降、「チョット」「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」「熱くなれ」等のヒット曲を出す。
デビューしてから数年は露出を控え、メディア出演やライブ活動をすることはなかった。
そのため、「大黒摩季は歌手担当、写真で顔を出すモデル担当、作詞・作曲担当とそれぞれ3人いる」「大黒摩季はコンピューターで作られたもので実在しない」という都市伝説まで存在した。
1996年度の長者番付では歌手部門10位となる。
1997年8月1日にレインボースクエア有明特設ステージで行われた初のソロライブ『LIVE NATURE#0〜Nice to meet you〜』で、初めて本格的にファンの前に姿を現す。
このライブの一部はテレビ朝日『ミュージックステーション』で生中継されたほか、ライブ・ビデオ『大黒摩季 LIVE BEATs』に一部収録されている。
このライブ以降、全国ツアーを開催するようになった。
それ以前にもわずかながらステージに立ち、姿を現している。
1990年5月に横浜バードで行われた近藤房之助と小島良喜のライブにゲストボーカルとして参加。
1996年2月と3月には大阪・心斎橋にあるグランカフェで行われていた、サンデーブルースLIVEクンチョーのステージに飛び入りゲストとして参加している。
1998年、9月11日にテレビ朝日系「ミュージックステーション」に2度目の出演を果たした。
1999年、全国ツアー『LIVE NATURE #3』を開催する。
2001年にはビーイングを脱退し、古巣の東芝EMIにレコード会社を移籍して活動再開した。
8月8日に復帰第1弾シングル「虹ヲコエテ」を発表した。
2003年、アルバム『RHYTHM BLACK』を引っさげて、全国ツアー『Live BOMB!LEVEL.3』を開催。
11月11日、友人の紹介で知り合った会社員と入籍。
初対面の際、男性は大黒のことを知らず、「アーティスト?画家ですか」と訊かれたと、大黒は語っている。
2004年、武部聡志、土屋公平、真矢、恩田快人らとコピーバンド“大黒摩季とフレンズ”を結成。
3月17日に1980年代の曲をコピーしたアルバム『COPY BAND GENERATION VOL.1』を発表。
シングル「ASAHI〜SHINE&GROOVE〜」がアテネ五輪ホッケー女子日本代表オフィシャルサポートソングに起用される。
2005年、2年ぶりの新作『HAPPINESS』を発表し、7月15日より全国ツアー『Live BOMB!LEVEL.4』を開催。
12月には初となる日本武道館単独ライブを行う。
2006年、初のバラードシングル「胡蝶の夢」がフジテレビ系昼ドラマ『新・風のロンド』主題歌に起用される。
3月にはバラードベストアルバム『weep』を発表する。
10月20日より全国ツアー『Live BOMB!LEVEL.5 〜デビュー15周年前倒し企画・わりと津々浦々お客様大感謝TOUR “ダイブ見せますMaki Best”+ 〜』を開催。
2007年4月18日にシングル「コレデイイノ?!/恋の悪魔 -She’s no Angel-」を発表。
6月26日、死去した坂井泉水の音楽葬に参列した。
10月、大黒摩季とフレンズを再結成し、青春ロックライブハウスツアーを開催。
2008年1月30日にアルバム『POSITIVE SPIRAL』を発表。2月9日より全国ツアー『MAKI OHGURO Live Bomb! Level.6 15th Anniversary Final Tour 〜ありがとう! そして…POSITIVE SPIRAL〜』。
2009年2月4日に初のセルフカバーアルバム『LUXURY 22-24pm』とライブDVD『Maki Ohguro Live Bomb!!Level.6 15th Anniversary Super Final in パシフィコ横浜 〜My Music My Life〜』を同時発表。
2010年8月24日に13枚目のアルバム『すっぴん』の発表とともに子宮疾患の治療のため、2010年10月末で無期限活動休止を発表した。
疾患は1996年には発覚していたが、子宮腺筋症だけでなく、左卵巣嚢腫、子宮内膜症、子宮筋腫も併発し他の内臓を圧迫しており、これ以上の肥大は子宮全摘出しか方法がなくなる可能性があり、また治療のための体外受精や流産を繰り返しており、2010年にきて治療のために活動停止をせざるを得ない状況となった。
同年11月に子宮全摘出の手術を受け、長年患ってきた子宮疾患を完全克服した。
2015年には、大黒の古巣ビーイングの所属歌手La PomPonへ楽曲提供をするなど作家としての活動を本格化。
9月16日リリースのシングル「謎/ヤダ!嫌だ!ヤダ! 〜Sweet Teens ver.〜」で「ヤダ!嫌だ!ヤダ! 〜Sweet Teens ver.〜」の作詞・作曲を担当。
4月にリリースされたLa PomPonの2ndシングル「HOT GIRLS」のカップリング曲「恋はずーく☆ダンス」にて「Maquita Grande Negro」というペンネームでも楽曲提供している。
2016年、6月1日発売の郷ひろみの101枚目のシングル「IRREGULAR」の楽曲提供を行った。
11月18日、テレビ朝日系列夜8時より生放送の音楽番組『ミュージックステーション』へ自身3度目の出演をした。
11月23日、2010年を最後に活動休止以来、約5年半振りとなる作品として再始動後初となるオールタイム・ベストアルバム『Greatest Hits 1991-2016 〜All Singles +〜』を発売。
オリコン週間売上で初登場4位となり、1999年発売の「MAKI OHGURO BEST OF BEST〜All Singles Collection〜」以来16年10か月ぶりにTOP5に入った。
また、11月24日付のデイリーチャートでも2位にランクインした。
2017年、1月7日よりbayfmでレギュラー番組「Your Playlist」が開始。
2月25日から2018年5月26日にかけて、およそ1年半に及ぶ47都道府県全国ツアー『Maki Ohguro 2017 Live-STEP!! 〜Higher↗↗Higher↗↗中年よ熱くなれ!! Greatest Hits +〜』が開催された。
5月27日にデビュー25周年を迎え、6月1日にはデビュー25周年記念の特設サイトが開設された。
9月27日、復帰後初なおかつ、デビュー25周年記念第一弾シングルとして「Lie, Lie, Lie,」がリリースされた。
この曲は、『名探偵コナン』のオープニングとして起用された。
2018年、全国ツアー後の5月から10月にかけて、6か月連続の新曲配信を行った。
また、12月5日には復帰後初の8年ぶりオリジナルアルバム「MUSIC MUSCLE」を発売。
このアルバムを携え、2019年3月から7月にかけて全国ツアー「MAKI OHGURO MUSIC MUSCLE TOUR 2019」を開催。
2019年12月20日、同年4月に離婚していたことを明らかにした。
同年12月31日より全楽曲の全世界サブスクリプション配信が開始。