「株式会社東芝(TOSHIBA)」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『田中久重』/沿革・歴史など~

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『田中久重』/沿革・歴史など~

 

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の経営理念

 

 

人と、地球の、明日のために。

 

 

東芝グループは、人間尊重を基本として、豊かな価値を創造し、世界の人々の生活・文化に 貢献する企業集団をめざします。

 

 

 

 

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の私たちの存在意義

 

 

世界をよりよい場所にしたい。
それが私たちの変わらない想いです。

 

安全で、よりクリーンな世界を。
持続可能で、よりダイナミックな社会を。
快適で、よりワクワクする生活を。

 

誰も知らない未来の姿。
その可能性を発見し、結果を描き、たどり着くための解を導き出す。
昨日まで想像もできなかった未来を現実のものにする。

 

私たち東芝グループは、培ってきた発想力と技術力を結集し、あらゆる今と、その先にあるすべての未来に立ち向かい、自分自身を、そしてお客様をも奮い立たせます。

 

新しい未来を始動させる。

 

それが私たちの存在意義です。

 

 

 

 

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の私たちの価値観

 

 

「誠実であり続ける」

日々の活動において、 人や地球に対する責任を自覚し、 つねに誠実な心で行動する。

 

 

「変革への情熱を抱く」

世界をよりよく変えていく熱い情熱を持ち、そのために必要な変化を自ら起こす。

 

 

「未来を思い描く」

社会に与える価値や意義を考え、 次の、さらにその先の世代ことまで見据える。

 

 

「ともに生み出す」

互いに協力し合い、 信頼されるパートナーとしてともに成長し、新しい未来を創る。

 

 

 

 

 

 

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の創業者・創立者『田中久重』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

田中久重(東芝創業者)

 

 

田中久重。寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。

 

幼名は儀右衛門。

久重がまだ8歳のときである。

 

無口ではにかみ屋だったかれが、寺子屋で学友たちから硯箱にいたずらされるという事件がおこる。

いまでいう「イジメ」である。

 

ところが、このとき少年のとった行動はふるっていた。

引出しのつまみをちょっと回すだけで、だれも開けることができない仕掛けの「開かずの硯箱」をつくる。

 

寺子屋の師匠も学友たちもびっくりした。

発明家“からくり儀右衛門”の誕生である。

 

その後も才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。

 

20歳のとき、からくり人形を使った「興行」、いまでいうプレゼンテーションを展開し始めた。

やがて、全国に一大からくり人形ブームを巻きおこし、“からくり興行師”という異名をとり、いちやく「時の人」となる。

 

九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。

彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。

 

天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。

同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。

 

その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門。

嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た。

 

翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させた。

この頃に蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。

 

嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。

 

その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、嘉永6年(1853年)、佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。

 

また、軍事面では反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。

文久元年(1861年)には佐賀藩の三重津海軍所で、藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、文久2年(1862年)には幕府蒸気船の千代田形蒸気罐の修繕を行う。

 

文久3年(1863年)には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーとなっている。

これらの文献記録を裏付けるように、三重津海軍所では鉄板圧着に使う鉄鋲(リベット)が多量に出土しており、蒸気罐組立に伴う遺物の可能性が高いと報告されている。

 

元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。

明治6年(1873年)に、新政府の首都となった東京に移る。

 

75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。

明治14年(1881年)11月7日、82歳で死去。

 

久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所となる。

後に東京電気株式会社と合併、東京芝浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となった。

 

数多くの発明をしたことから「東洋のエジソン」とも呼ばれた。

 

 

 

田中久重(東芝創業者)の名言・考え方

 

 

 

国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん。

 

 

そう言うべからず。これも国のためであり、人助けにもなることたい。

 

 

 

人の頭にひとたび浮かんだ思いつきは実現しないことはない。

 

 

 

余は、今有用なる機械を製造して、世の公益を広めんことを願う他に一点の利欲なし。

 

 

 

知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。

 

 

 

 

 

 

「株式会社東芝(TOSHIBA)」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

東芝の初期の歴史には2つの流れがあります

その一つである田中製造所は1875年に日本で最初の電信設備メーカーとして設立されました。

 

創立者である田中久重(1799 -1881)は、からくり人形や万年自鳴鐘などを発明し、若い頃からその名が広く知られていました。

田中製造所は1893年に芝浦製作所と名を改め、1904年には株式会社芝浦製作所が創立。

 

日本の重電メーカーの源流の一つとなりました。

もう一つはエレクトロニクスの流れです。

 

1890年に白熱舎が最初の白熱灯製造会社として創設。

※藤岡市助(白熱舎創業者)

1857年4月周防国岩国(現在の山口県岩国市)に岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。慶応元年(1865年)、藩校の養老館に入る。1875年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。1881年首席で卒業。1884年工部大学校教授に就任。物理学、電信学を教える。1886年山尾庸三の尽力で東京電燈を設立する。1890年 三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。

 

 

後に、さまざまなエレクトロニクス製品を開発し、1899年に東京電気と改名されました。

1939年には、それぞれの分野でのリーダーであったこれらの2つの会社が東京芝浦電気株式会社として合併しました。

 

 

 

【東芝沿革】

 

1873-1890東芝に通じる一歩を踏み出す

 

1873年(明治6年)に田中久重は、工部省(当時の政府機関、産業の近代化を推進)から受注した電信機を開発していましたが、受注拡大に伴い、1875年(明治8年)東京・銀座に工場を創設しました。

 

これがのちの田中製造所の創業であり、東芝の発祥となりました。

 

また、1878年(明治11年)に当時学生であった藤岡市助が工部大学校(現、東京大学)に招聘されていたエアトン(W. R. Ayrton)教授の指導の下、日本で初めてアーク灯を灯しました。

 

この頃の電灯は全て海外製であり、国産の電球を製造するために、1890年(明治23年)に白熱舎を創設しました。

 

1891-1931大震災に遭いつつも復活を遂げる

 

田中製造所は水車発電機、白熱舎はラジオ用送信機など、日本初の機器を次々と開発しました。

 

また、1921年(大正10年)に電球の6大発明の1つである「二重コイル電球」を発明しました。

 

1923年(大正12年)に「関東大震災」が発生し、死者・行方不明者が10万人を超える甚大な被害をもたらし、東京電気(1899年(明治32年)に白熱舎から改称)でも大勢の死者が出ました。

 

東京電気の復興に際して、当時の社長が「研究所なき工場は、触角なき昆虫のごとし」と名言を残し、見事に復活を遂げました。

 

また、このような時期においても医療機器、ラジオなどの分野にも積極的に参入しました。

 

1932-1939重電の芝浦製作所と軽電の東京電気が合併し、総合電気メーカーが誕生

この頃の日本は、戦時中で鉄・鋼材が貴重な資源であったため、家庭電化製品の生産が禁止され、苦しい時代を迎えることになりました。

 

芝浦製作所(1893年(明治26年)に田中製造所から改称)と東京電気は、同じ三井財閥(銀行)の系列下であったこともあり、互いに株式を持ち合い、提携関係にありました。

 

技術の進歩に伴い、重電と軽電を組み合わせた製品の需要が高まり、1939年(昭和14年)に両社が合併し、「東京芝浦電気株式会社」が発足しました。

 

この時、既に「国際的に見て、世界屈指の大電気工業会社を目指す」という高い志を抱いていました。

 

1940-1956戦時中は、膨大な官民需要に応え、戦後は、東南アジアへ輸出を開始

 

太平洋戦争などが激化する中、国家の要請に応え、軍事物資として無線機や真空管および動力源となる発電機など、急速に生産を伸ばしました。

 

一方で空襲を受け、工場が焼失するなど、生産能力が極度に低下することもありました。

 

戦後は、重電を中心に生産を再開、復興が進むにつれて軽電も軌道に乗せることができました。

 

また、営業を強化するために販売会社を設立したり、東南アジアなどへの輸出も開始しました。

 

1957-1972経営体制の刷新と企業体質を強化するとともに、積極的に海外進出

 

1950年代後半(昭和30年代前半)、日本経済は活況を呈し、重電、電子・通信事業が急伸長しました。

 

それに伴い、新製品・新技術の開発を推進するとともに、既存工場の拡張および新規工場の建設など市場の需要拡大に応え、業績は急拡大しました。

 

また、海外での販売、製造を強化するために、現地に販売会社、製造会社を設立して海外の売上比率を高めていきました。

 

1973-1983「飽くなき成長」を実現するために技術力を強化

 

1973年(昭和48年)からのオイルショックによる景気の悪化に伴い、「利益は企業活力の源泉、技術は企業発展の推進力」の考えの下、技術力強化のために研究開発を積極的に推進し、将来の糧となる研究を加速させ、世界初、日本初の多くの技術を世の中に送り出しました。

 

また、生産技術力も強化を図り、品質の安定、省人化、工期短縮などを実現し、収益改善に大きく貢献しました。

 

1984-1999株式会社東芝に社名変更。社内カンパニー制を導入し、経営判断を迅速化

 

1984年(昭和59年)に、東京芝浦電気の略称である「東芝」に社名を変更しました(英文では1978年から「TOSHIBA CORPORATION」に変更)。

 

1990年代になると経済成長が低迷する中、持続的成長を実現していくために、成長が期待される事業や伸ばすべき新規事業などに経営資源を集中するとともに成熟・衰退事業は、事業構造を変革して新しい成長を進める、という「集中と選択」を行いました。

 

その結果、半導体事業への集中投資、パソコン事業の拡大などを実施しました。

 

また、1999年(平成11年)に社内カンパニー制を導入し、8つのカンパニー(当時)が誕生しました。

 

各社内カンパニーに権限を委譲し、自主責任体制の確立と迅速な経営判断が行われるようになりました。

 

2000-グローバル競争を勝ち抜くために、世界初・世界No.1の商品・サービスを創出し、グローバルトップへ

 

新興国経済の成長と先進国の経済低迷により、21世紀は経済・産業のパラダイムが大きく変化しました。

 

国家の枠組みを超えたグローバル競争が激しさを増す中、企業としての成長を続けるために、収益基盤を強化するための「事業構造改革」と、成長分野を強化しつつ新たな事業を立ち上げる「事業構造転換」を実施しています。

 

これにより、コスト競争力と商品力に優れた世界初・世界No.1の商品・サービスを展開するとともに「集中と選択」をさらに進め、グローバルトップへの挑戦を続けています。

 

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