「九州電力株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「九州電力株式会社」の九電グループの思い
ずっと先まで、明るくしたい。
「ずっと先まで、明るくしたい。」というメッセージは、私たちがこれからの時代の変化のなかでも変わることなく電力やエネルギーを安定してお届けする、そしてお客さまの快適で環境にやさしい毎日に貢献していく、という気持ちを表しています。
「快適で、そして環境にやさしい」という言葉には、「快適な毎日を楽しみながら、その毎日がよりよい地球環境につながっている、地球環境によいことが、人間の豊かさや快適さにつながっている、そういう持続可能な社会に貢献していきたい」という思いを込めています。
快適で環境にやさしい毎日の実現に貢献し、子どもたちの未来につなげていくこと、これが「九電グループの思い」です。
4つの挑戦
1.地球にやさしいエネルギーをいつまでも、しっかりと
私たちは、お客さまに毎日の生活を安心して送っていただけるよう、エネルギーや環境に関する豊富な技術や経験をもとに、世の中の動きを先取りしながら、地球にやさしいエネルギーをいつまでも、しっかりとお届けしていきます。
2.「なるほど」と実感していただくために
私たちは、お客さまの信頼を第一に、さまざまな声や思いをきっちりと受け止め、お客さまに楽しさや感動をもって「なるほど」と実感していただけるようなサービスでお応えしていきます。
3.九州とともに。そしてアジア、世界へ
私たちは、九州の皆さまとともに、子どもたちの未来や豊かな地域社会を考え、行動していきます。そして、その先に、アジアや世界をみます。
4.語り合う中から、答えを見出し、行動を
私たちは、人間の持つ可能性を信じ、個性を尊重し合い、自由・活発に語り合う中から、明日につながる答えを見出し、行動していきます。
「九州電力株式会社」の創業者・創立者『松永安左ェ門』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
松永安左エ門(九州電力創業者)
明治8年(1875)、長崎県壱岐の裕福な商家に生まれた松永は、15歳で慶應義塾に進学して福沢諭吉に師事します。
明治23年15歳の時コレラにかかり生死の境をくぐります。
父の死去によって慶応義塾を中退し、家業を継ぐが3年で廃業となった。
学校を中退し、日銀マン、株屋などの職業を転々とします。
しかし明治40年(1907)、33歳の時、株価暴落で破産し、さらに自宅を火事で失うという不運が重なり、神戸で借金取りに追われる生活となりました。
この頃、松永に罪はなかったが贈賄容疑で大阪警察に逮捕され、監獄生活を経験します。
その後、石炭商で収益を得て、その人脈を生かしていきます。
明治41年(1908)、松永は旧知の福沢桃介の後押しで広滝水力電気の監査役に就任したのを皮切りに、北九州で電力事業に従事していきます。
1909年(明治42年)、福博電気軌道の設立に関わります。
のちに九州電気株式会社を設立、電力業経営へと注力していきます。
当時は採算のとれない地域には電線を引いていなかったため、一般家庭への普及率は1割程度でしたが、松永は電気料金の大幅値下げを実施するとともに、市街地以外にも電力が行き渡るよう努めた結果、北九州は日本有数の電力先進地域となりました。
1922年(大正11年)関西電気と合併して、東邦電力を設立し副社長になった。
1928年(昭和3年)には社長に就任し、九州北部で始まった松永の電力経営は、合併を繰り返し、供給地域が九州、関西、東海の1府10県におよぶ東邦電力へと成長した。
当時、5大電力と呼ばれた電力会社にはほかに「電力王」福澤桃介が社長の大同電力、首都圏を基盤とする東京電灯などがあった。
東京電灯は供給量不足で停電を起こすなど課題が多く、松永は関東大震災後の首都復興に向けて東京電力を設立、首都圏の電力供給に乗り込んだ。
1927年(昭和2年)、東京電燈と東京電力は合併し、東京電燈株の交付を受けた大株主という立場の松永は同社の取締役に就任。
その影響力はもとより、「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したことなどもあって「電力王」といわれた。
結果、安左エ門は東邦電力(九州電力の前身)を中心として、東北電気、東京電力など約100社ほどを支配下にし、日本でも五本指に入る企業にまで育て上げた。
しかし、昭和に入ると、官僚や軍部が「電力を国家管理すべき」と圧力をかけますが、松永は民営こそが「需要家第一」につながるとして抵抗を続けます。
しかし、昭和12年「電力国家管理案」は国会で通過し、翌年日本発送電(株)を設立、昭和14年には戦争に突入。
昭和14年(1939)、電力は国営化され、松永は電力界から去ることになりました。
ところが昭和20年(1945)の敗戦で、71歳の松永に再び活躍の舞台が与えられます。
占領軍総司令部(GHQ)の支配下となった日本は、民主化政策として財閥解体、農地解放、電力事業の民営化を推進することとなり、安左エ門に白羽の矢が立ちます。
昭和24年(1949)、吉田茂から電気事業再編成審議会の会長に任ぜられます。
安左エ門は、戦後の日本復興を支えるのは電力であり、電気事業の競争による発展が欠かせないとの信念をもっていた。
安左エ門の構想は、戦中の日本発送電を含むすべての設備を分割し、九つの配電会社に配分し、地域ごとに電力配給の責任をもつ「九分割案」体制でした。
しかし、「中央の日本発送電を残す案」を推薦する安左エ門を除く他の委員や財界人とも、「十分割案」を考えていたGHQとも意見の一致をみなかった。
安左エ門は時の通産大臣、池田勇人を訪ね、日本の復興と電力再編成について熱心に持論を説明し、まず国の発展を優先させる主張を展開した。
さらにGHQへも足繁く通い、自説の説得にあたった。
最終的にはGHQが反対派をねじ伏せ、安左エ門の「九分割案」が採用され、実現化。
昭和26年「九電力体制」が整うと、電力技術研究所を設立。
さらに、電気事業の技術研究だけでなく、より適正な料金体系の研究やコンピュータなどの設備に対応する経済研究部門を併設し、電力中央研究所に改組した。
初代理事長には前日本発送電総裁の大西英一氏が就任し、2代目には安左エ門が自ら理事長となり、電力設備の近代化と電源開発を推進するリーダーシップを発揮していった。
昭和31年には日本の政・財・学・官界のトップで構成する「産業計画会議」を自ら主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表し、議員や大臣、関係者に働きかけた。
専売公社の廃止、国鉄の民営化、高速道路の整備など、日本の近代化を推し進めるプロジェクトであり、その大部分が後世に実現している。
あわせて、電力設備の近代化と電源開発も推し進めた。
水力に頼っていた電源が火力へシフトすると予測し、燃料も石炭から石油へと設備を拡充していった。
さらに、原子力へも目を向け、昭和41年には研究所内に事務局を置く「フェルミ炉委員会」を発足。
その後も、昭和44年には、電気事業研究の国際的協力と情報交換を目的とするIERE(電気事業研究国際協力機構)を発足。
亡くなるまで電気事業の世界に、そして経済界、産業界に影響を与え続け、近代日本の発展を導いていった。
1962年、松永の米寿を記念して池田勇人内閣総理大臣が発起人となって、財団法人松永記念科学振興財団、松永賞が創設された。
松永は昭和46年(1971)、97歳で大往生を遂げます。
松永安左エ門(九州電力創業者)の名言・考え方
きみら、油断したら、えらいめに遭うぞ。
勝ち負けがあるからには、いつも必ず勝たねばならぬとは限らぬ。
小さな妥協は小さな人物でもできるが大きな妥協は大きな人物にならなければできない。
同じ物でも考え方ひとつ。やるやつはやるように考えるしへこたれるやつはへこたれる方へ考えてしまう。
今、自分の前に大きな岩があるとする『ああダメだ。とても割れない』とあきらめたら負けけだ。まず、必ず岩を割ってみせると、勇猛心をわき立たせる。この精神力が岩を割る秘訣である。どんな大きな岩でもスジがある。そのスジにタガネを当てる。一カ月でも二カ月でも根気よく当てる。やってやりまくる。そのうちに、髪の毛ほどの筋が見えてくる。その筋に猛然とタガネをぶち込む。岩はスジを伝って割れる。岩の持っている巨大な力で、自ら割れてしまう。
人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか!
意気地さえあれば失敗などということは人生にない。
世の中、おかしなもので、同じ程度の利口の場合、利口そうな顔をしている方を利口そうに思い込み、バカな顔をしている方をバカと思い込む。これは大間違いだ。初めは化けの皮がはげないが、そのうちはげると、利口そうなヤツは「案外バカな奴」と評価を下げるし、逆に、バカな顔をしていた者は「案外こいつ利口だな」 と評価が上がる。
ひとつの力を養ったら二の欲を出せ。二の力を得たら三の欲を出せ。人間は決して小成に甘んじてはならない。
全国を九地域にわけて一区域一会社主義をとり、群小会社は合同させて、できない場合はプールし、供給区域の独占を認め、鉄道省が多く持っていたような官・公営の火力設備も民営に移して全国的に電力の負荷率・散荷率を向上させ、料金は認可制とし、監督機関として”公益事業委員会”を設置する。
実業人が実業人として完成する為には、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は長い闘病生活、第二は長い浪人生活、第三は長い投獄生活である。このうちの一つくらいは通らないと、実業人のはしくれにもならない。
人間の飛躍というのは、自分みずからが制限して思い切ってやらないので、できないんです。人が何か思いやせんかとか、自分の力がないんだろうかとか、自分で制限をつけるのがいけないんだ。自分の力を本当に出し切らんのは、自分を信じないからなんだ。
人間はまず己の生活をたて、次に他人のため、その上で遠い社会国家に出来るだけ奉仕すべきものだ。そして各人が己の使命を知って、それを果たしていかねばならぬ。
民衆の幸せを考えないようでは政治家でも実業家でもない。
「九州電力株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1951年
・創立
1955年
・日本初のアーチ式ダムを持つ上椎葉発電所運転開始
1956年
・苅田発電所1号機(石炭、7.5万kW)運転開始
1957年
・当社初の超高圧送電線の中央幹線昇圧(22万V)運転開始
・火力発電量が水力発電量を上回る(水火力の比重逆転)
・大村発電所1号機(石炭、6.6万kW)運転開始
1960年
・周波数統一終了
・港発電所1号機(石炭、15.6万kW)運転開始
1961年
・新小倉発電所1号機(石炭、15.6万kW)運転開始
1967年
・大岳発電所(地熱:1.1万kW)運転開始 (注)国内初の事業用地熱発電所
・唐津発電所1号機:(石炭、15.6万kW)運転開始 (注)当社初の制御用電算機を採用
1969年
・大分発電所1号機(石油、25万kW)運転開始 (注)当社初の重油専焼火力発電所
1970年
・未点灯家屋の全面解消
1973年
・相浦発電所1号機(石油、37.5万kW)運転開始
1974年
・川内発電所1号機(石油、50万kW)運転開始
1975年
・玄海原子力発電所1号機(55.9万kW)運転開始
・大平揚水式発電所(50万kW)運転開始 (注)当社初の揚水式発電所
1977年
・八丁原発電所1号機(地熱、2.3万kW)運転開始
・豊前発電所1号機(石油、50万kW)運転開始
1980年
・50万Vの中央・西九州変電所新設、佐賀幹線50万Vに昇圧
・電源開発株式会社が関門連系線(50万V)運転開始
1981年
・玄海原子力発電所2号機(55.9万kW)運転開始
1982年
・九州エネルギー館開館
1984年
・川内原子力発電所1号機(89万kW)運転開始
1985年
・川内原子力発電所2号機(89万kW)運転開始
1986年
・天山揚水発電所1号機(30万kW)運転開始
・配電線自動制御システム運用開始
1989年
・松浦発電所1号機(石炭、70万kW)運転開始
1990年
・日本初の高低圧作業停電「ゼロ」達成
1991年
・新大分発電所1号系列(LNG、69万kW)運転開始 (注)当社初のガスコンバインドサイクル発電所
1994年
・玄海原子力発電所3号機(118万kW)運転開始
1995年
・山川発電所(地熱、3万kW)運転開始
・苓北発電所1号機(石炭、70万kW)運転開始
1996年
・大霧発電所(地熱、3万kW)運転開始
・滝上発電所(地熱、2.75万kW)運転開始
1997年
・玄海原子力発電所4号機(118万kW)運転開始
1998年
・超伝導エネルギー貯蔵装置運用開始 (注)電力設備としては日本初で世界最大規模
2000年
・玄海エネルギーパーク開館
2001年
・当社初の海外事業案件メキシコ・トゥクスパン2号IPPプロジェクト開始
・九州ふるさとの森づくり開始
・苅田発電所新1号機(石炭、36万kW)運転開始 (注)当社初の加圧流動床複合発電(PFBC)
2002年
・法人お客さま専任のアカウントマネージャーの配置
2003年
・甑島風力発電所(250kW)運転開始
・野間岬ウィンドパーク発電所(3,000kW)運転開始
2004年
・大村発電所廃止
・港発電所廃止
2005年
・日本最長の電力海底ケーブルによる五島連系設備(53km)運用開始
2006年
・八丁原バイナリー発電所(2,000kW)運転開始 (注)日本初の事業用地熱バイナリー発電所
2007年
・「九州電力の思い」(ブランドメッセージ「ずっと先まで、明るくしたい。」)を制定
2009年
・玄海原子力発電所3号機で日本初のプルサーマル運用開始
2010年
・メガソーラー大牟田発電所(3,000kW)運転開始 (注)当社初のメガソーラー発電所
2011年
・本店の部を廃止、支店の廃止、支社及びお客さまセンター、電力センター、内燃力センターを設置
2013年
・九州エネルギー館閉館
・大分発電所廃止
2015年
・玄海原子力発電所1号機運転終了
・唐津発電所廃止
2016年
・熊本地震が発生、熊本県を中心に最大47万6,000戸が停電。電力各社からも応援要員・電源車などを派遣
・世界最大級の大容量蓄電システム(出力5万kW、容量30万kWh)を備えた豊前蓄電池変電所の運用を開始
・一般社団法人「九電みらい財団」設立
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