株式会社ヘリオス創業者、鍵本忠尚:経営の軸とは?

株式会社ヘリオス創業者、鍵本忠尚:経営の軸とは?

経営の軸とは?

 

鍵本忠尚/株式会社ヘリオス創業者

 

 

患者さんに薬を届けたいという強い思いが僕の“経営の軸”です。
その軸は、3つの三日月の気持ちに寄り添ったことで生まれ、その後、数々の修羅場をくぐりぬけることで、強く太くなっていきました。
ぶれない堅固な軸があったからこそ、あきらめずにここまでくることができた。
そして、そんな軸を持っていることが提携企業に伝わったことで多くの出資に繋がり、順調な経営に結びついているのだと思います。

ひとつ言えるのは、自分の人生を、過去を含めて肯定するしかないということです。
そのなかで何がしたいのか、徹底的に深掘りしてみるべきだと思います。
私自身もいまの「軸」が定まるまでいろいろと悩みましたが、「軸」が見つかりさえすればあとは前に進むだけでした。
そこに迷いは起きないと思います。
自己否定ほど辛いものはありません。

 

 

 

鍵本忠尚とは?

 

 

鍵本忠尚。

「ヘリオス」代表。

 

熊本県出身。

2002年、九州大学医学部卒業。

 

米シリコンバレーのJETRO事務所でインターン経験後、2003年、九州大学病院にて眼科医として勤務。

2005年、アキュメンバイオファーマを起業し、日本の大学発のバイオ技術でBBG250を利用した眼科手術補助剤を開発。

 

インド・米国での自社第Ⅲ相治験を経て欧州において承認取得・上市を果たしデファクトスタンダードの地位を獲得。

2011年2月、加齢黄斑変性の治療法を確立すべく日本網膜研究所(現・ヘリオス)を設立。

 

2015年6月、東証マザーズに上場。

 

 

厳選!鍵本忠尚の珠玉名言

 

 

私は両親とも医師の家庭に育ちましたが、中学の時に「絵」に興味を持ち、キャンバスの上に絵の具を置くというシンプルな表現法に無限の可能性を感じて、高校時代までずっと油絵を描くことに没頭していました。 絵を描くというのは自分と向き合う作業であり、多感な年頃だったこともあって、自分の人生には何の意味があるのかという思いを巡らせながら、ひたすら絵を描いていましたね。高校2年までは、将来は画家になろうと真剣に考えていました。

 

 

 

お世辞にも真面目な学生とは言えませんでしたね。あまり授業にも出ていませんでしたし、でも興味のある領域だけはとことん追究していました。 特に面白かったのがウィルス学。ウィルスというのは、生物と非生物の境界にいるような存在で、遺伝子情報を有する最小単位なんですね。その境界を理解するとこで、我々の生命の仕組みを解明できないかというアプローチにとても惹かれたのです。 九大にはウィルス学で高名な教授がいらっしゃって、その先生の研究室に毎週足を運び、一緒に論文を読んでは議論していました。本当に優れた論文というのは芸術的で、仮説、実験、検証、結論までの流れが見事に構築されているんです。 その先生と過ごした時間は私にとって本当に貴重なものでしたが、振り返ると大学時代は、自分に何ができるのか、自分が何をすべきなのか、ずっと迷っていたように思います。

 

 

父は内科で血液学をやっていました。血液学には体系だったエレガントさがあって、医学を志す者にとって憧れの学問の一つです。ただ、父の考えは違いました。「血液学者は偉そうな顔をしているが、本当は血液学者が偉いわけではない。イノベーションが起きたのは生化学の領域。血液はサンプルを取りやすくて実験しやすいから、生化学のイノベーションをいち早く取り込んだだけ」。これを聞いたときに、逆にイノベーションを取り込めていない診療科のほうが将来性があるんじゃないかと思い、眼科を選びました。大学病院に薬の処方の本があったのですが、当時、眼科に割かれていたのはたった3ページ。ばい菌を殺す抗菌剤、ステロイド、緑内障の3種類しかメジャーな薬がなかった。このまま進歩がないはずはないと。

 

 

シリコンバレーでの日々を経験して、いきなりバイオベンチャーを起業するのは無謀だと感じました。当時、アメリカの再生医療のパイオニアだった有名なベンチャーでさえも、資本主義の荒波に飲まれてリストラを重ねているような有様で、揺るぎない「軸」のようなものがないと、会社を立ち上げてもすぐに周囲に流されて倒れてしまうだろうと。 私の場合、その「軸」がまったく確立されていなかった。では、何を軸にすべきかと考えた時、当時私の本分はやはり医師であり、まずは臨床をやって患者さんを診ようと決意して、眼科医としてのキャリアをスタートしたのです。 そして患者さんに触れれば触れるほど、臨床だけでは自分の人生のミッションとして足りないと強く感じるようになって、自分たちの手で新しい治療法を生み出し、世界中の患者さんに届けたいと一社目のバイオベンチャーを立ち上げるに至ったのです。

 

 

起業したのはシリコンバレーに行った経験が大きかったですね。大学を率業して、スタンフォード大学の友人の寮に転がり込んで3か月ほど滞在しました。向こうではJETRO(日本貿易振興機構)にお世話になって、バイオテクノロジーを調査するインターンをしていました。そのとき新しい薬を製品化していくバイオベンチャーの力強さに感心しました。父は大学で研究をしていたのですが、大学には大学のミッションがあって、研究結果が簡単に製品にならない。スピードを求めるなら、やはり製品を出すことに集中している民間企業のほうがいいなと。

 

 

 

組織が大きいと、組織を説得するところにエネルギーを取られてしまいます。一方、ベンチャーは創薬に納得している人しか入らないので、「この薬、どうですか」などという稟議はいらない。シリコンバレーでそのことを学びました。

 

 

 

実は大きな挫折も味わっています。開発した治験用新薬の生産をアメリカで企業に委託したのですが、そこで単純なミスが生じてしまい、一からすべてやり直さなければならない状況に陥りました。 ちょうどリーマン・ショック後で資金調達もままならず、リストラせざるを得ない事態に。

 

 

気持ちとしては殴り合いの喧嘩です。日本人の発明は優れているが、ビジネスは弱いとよくいわれます。たしかにお人好しじゃ、この世界で生きていけない。勝たないと意味がないと思って踏ん張りました。

 

 

この勝利は単なる一製品の勝利ではない。“日本のアカデミア初のバイオ技術”の世界での勝利だったんです。この日は偶然にも、35歳、人生の折り返し地点の誕生日。敵地の寒い海岸を一人歩きながら、人生をこの闘いに捧げようと決心しました。

 

 

細胞は1種類だけだと静かにしています。ただ、ある3種類の細胞を混ぜるとスイッチが入って、自ら組織をつくり始めます。その塊を臓器に入れると、まわりの血管を引き込んで循環させ、臓器の組織をつくり、いろんな酵素を出していくんです。この方法で脳や肝臓、腎臓の一部、肺、精巣といった臓器ができることが確認されていて、特許も出願しています。

 

 

 

失敗経験も大切ですが、経験を消化することが最も重要です。何が原因だったのか、どのポイントで修正すべきだったかなど、過去を振り返る時間が必要です。

 

 

生きている人間はそれだけで恵まれている。時間を無駄にせず、意味のあるものにしなくては。

 

 

あえて懸念を一つあげると、内弁慶になりがちなことでしょうか。いま日本はリードしていますが、日本だけでできると過信すると、かつての携帯電話のようになってしまう。いい流れだからこそ、外のイノベーションも取り込んでいくことが大切。我々も海外の技術を積極的に取り入れてリードしていきたい。

 

 

新しい技術はリスクがある。やるなら腹を据えて最後までやり切る必要がある。

 

 

バイオベンチャーは水がまだ満たされていないプールに高い所から飛び込むようなところがある。着水するまでに水が満ちているだろうかと不安になるが、周りがやめろというときがちょうどいい。腹を決めて、やる。そこにはタイミングがあり、臨床医として仕事をしてきた肌感覚としても迷いはない。

 

 

準備しすぎてしまうのは、戦後の日本の典型的な弱点ではないか。社是の一つでもあるが、『Jump in 60』という考え方で、60%の状況把握で飛び込むのが大切ではないか。

 

 

人類が“生きる価値”を増やしていけるような薬を作り、届けたい。

 

 

 

 

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